これからの公共性の基盤として「つくる」主体と「捨てる」主体を考える
今日は昨日の議論の続き、というか関連して「公共空間」について考えてみたい。
僕は少し前に、高円寺の老舗銭湯「小杉湯」が原宿に進出したことについて以下の記事で書いた。
ここで僕が言いたかったのは、要するに公共空間というのは人間が共同体の一員ではなく(裸の)一個人になり、それでも受け入れられると信じられる場所であるべきだということなのだ。少し前(80年代、90年代)なら、それは事物の「消費」がその役割を果たしていたように思う。
どこの誰でも「お金さえあれば」その場所に受け入れられ、好きなことができる。しかし事物の消費のもたらすこの自由の快楽は、情報社会下による「発信」(が承認されること)の快楽に上書きされてしまった。おそらく現代を生きる人類の大半が、好きなものを好きなように(所持金の許す範囲で)買う快楽よりも、情報発信によって不特定多数に認められる快楽のほうを重視している……というか、普通に「コスパがいい」ので優先的に追求しているはずだ。
そして情報発信による承認の獲得とは、要するに共同性に接続することだ。そして共同性を「コスパよく」確認する方法は敵に石を投げて味方に喝采を送られることだ。連合赤軍からオウム真理教、はたまた言論界の党派まで教祖が次から次に欠席裁判飲み会的に「敵」をとっかえひっかえ設定して信者に石を投げさせるのは、それがインスタントに求心力を発揮させる方法だからだ。そしてこの構造はトランプ他に悪用され、民主主義の基盤すら脅かしつつある。
僕がコモンズや公共空間と共同体の「デカップリング」を主張する理由はここにある。たとえ一瞬でも、その場所にいるときに人間は裸に、個人にならなくてはいけない。じゃないと「公共性」は成立せず、共同性に絡め取られ、ムラの空気とタイムラインの潮目しか読めなくなる。
いや、論理的に厳密には共同性をゼロにした個人など成立しない……というのは常識だと思うのだけれど、それがムラ社会や飲みニケーションを免罪する理由にはならないし、少なくともそこでは裸の個人になれると「信じられる」ことがないと公共性は成立しない。
そして本題だ。では「消費」という回路が色褪せた今、どうやって公共空間を成立させるのか。
すでに検討したようにプラットフォームは承認の交換の場になっている以上、共同性を排除できない。ではどうするか。僕がいちばん有効だと思っているのは、事物を「つくる」という回路だ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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