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これからの社会は「承認」のゆりかごを充実させるか、「評価」のハードルを下げるかの二択になる(そして僕は後者のほうがいいと考える)話
さて、今日はちょっと変わった話から始めたい。少し前に國分功一郎さんの『中動態の世界』について、書いた。
要するにそこで僕は、彼の述べる『中動態の世界』とは、意外とこのSNSプラットフォーム中心の社会に近く、そして現行の世界(能動態/受動態の世界で記述される世界)と新しい「中動態の世界」がうまく噛み合っていないのではないか、ということを書いたのだ。
たとえば『テラスハウス』事件では、視聴者とメディア(フジテレビ)とプラットフォーム(Instagramと旧Twitter)が実質的に他の二者に責任を押し付け合うムーブが見られたのだが、これは従来の「審判する言葉」(能動態/受動態のパースペクティブで記述される)と、インターネット的な「中動態の世界」(因果関係がある程度可視化されているために、「責任」の「所在」が決定できない)との悪魔合体の結果発生した現象だろう。
ではどうするか、というと僕はプラットフォーム上の「中動態の世界」が、従来の「審判する言葉」に支配された世界を、部分的に緩和できるような両者の関係の「結び直しが」必要だと思う。
たとえば前述の問題で言えば、SNS上に可視化された因果関係を、「犯人探し」から回避するための言い訳ではなく、三者がそれぞれの加害性を自覚するための「ケア」のプログラムに用いられる……といった取り組みが必要になるだろう。
その上で、僕が今日述べたいのはもう少し大きな、というか射程の長い話だ。
僕は、國分の一連の議論を応用すると、丸山眞男の『「である」ことと「する」こと』のやや混乱した議論を整理することができると考えている。
「……である」ことを問題にするとき、人間は「能動態-中動態」で記述される世界を生きている。そこでは行為が自分に作用するか、それ以外に作用するかで区別される。そのため、自己の行為が「この私」を記述することはなく、むしろ因果の流れの中でどのような状態「である」かが「この私」を決定する。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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