『庭の話』の「可能性の中心」
今日は僕がこれまでもらった『庭の話』の感想でもっとも鋭いと感じたものを紹介しようと思う。それは年末の渋谷ヒカリエでのトークイベントでの成馬零一さんの指摘だ。
これは昨年2024年の文化状況を総括するというコンセプトの年忘れトークイベントだったのだが、僕がちょうど『庭の話』を出したばっかりだったので、脱線してその話になった一幕が生じた。
そこで成馬さんが言ったのは、かいつまんで言えばこの『庭の話』とは、かたちをかえた富野由悠季への応答だということだ。
どういうことか。
この本の「ラスボス」はドナルド・トランプでもイーロン・マスクでも、國分功一郎でもなくある小説の登場人物だ。坂口安吾の『戦争と一人の女』『続戦争と一人の女』に登場するヒロインの、名前もつけられていない「女」こそが、この長い本の「ラスボス」的存在なのだ。
なぜそうなるのかはぜひ本を読んでほしいのだけど、要するに彼女は人間のある欲望を体現してしまっている存在で、その欲望こそが僕の考えるプラットフォーム資本主義を内破するための最大の鍵になるからだ。そのため、『庭の話』の後半は彼女を満たす恋人(もちろん比喩)を、ある条件下で探すことが目的になる。(ちなみに、彼女を魅了していた「失われた恋人」とは「戦争」だ。)
そして成馬さんはこの「女」を、富野由悠季の生み出したあるキャラクターに重ね合わせたのだ。
それはあのカテジナ・ルースだ。『機動戦士Vガンダム』のヒロイン(?)であり、(正真正銘の)「ラスボス」であるあのカテジナさんだ。ご存じない方のために説明すると、カテジナは全てに苛立っている少女として登場する。最初は主人公ウッソ少年の憧れのお姉さんとして登場するカテジナだが、彼のような少年兵のイノセントさに救いを求める大人たちに失望して敵側に寝返り、やがて最強の敵として立ちはだかるようになる。
カテジナを駆動するのは憎悪と、戦場の与える解放感だ。登場する女性キャラクターたちが敵も味方もことごとくウッソ少年を「母」的に愛する(と、紹介していて改めて思うが、どうしようもなく歪んだ物語だ……)本作において、カテジナだけは「母」であることを拒否する。そして「男の子のロマンスに、なんで私が付き合わなきゃいけないの」とウッソを拒絶する。「母」になることを拒否し続ける少女性の体現者ーーそれがカテジナだ。彼女は、大した人間ではないと薄々わかっているパートナー男性に依存し、彼がウッソに敗死すると精神に異常をきたす。結末では死ぬことさえ許されず、荒廃した地球を一人さまようことになるーー。
そして成馬さんは、カテジナさんと『戦争と一人の女』の「女」の共通点を見出したのだ。つまり男性との対幻想を強く求めながらも、それでは救われないことを自覚している点で二人は似ている。だから宇野はかたちをかえて、カテジナはどうすれば救われたのかを(『母性のデぃストピア』から7年たった今でも)考えているのだ、ということなのだ。
この読解には思わず、唸った。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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