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人間はどのような条件下で「制作」に動機づけられるのか、という問題を再考する(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を手がかりに)

さて、前回に引き続き今日も國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の消費社会批判を情報社会に延長したらどうなるか……という思考実験を続けたい。

 前回の議論をざっくりまとめると、『暇と退屈の倫理学』の消費社会批判は人間が事物そのものを「味わって」いない、というものだ。ブランド品の顕示消費がその最たるものだが、事物そのものを用いることではなく、事物についてのコミュニケーションの方に関心を移してしまっている。そして前者の欲望は事物を使用すれば満たされる。着たい服を着ることで、満足する。しかし後者は満足することがない。ブランド物を多数消費するセンスのいい私、を維持するためには常にその状況下で「イケている」アイテムを所有し、それを見せびらかし続ける必要があるからだ。國分は前者を浪費、後者を消費と呼び、「消費」から「浪費」を回復することを主張する。

 そのために國分が提示する戦略は、人間が新しい事物(そのもの)に動機づけられる「不法侵入」の機会を待ち構えること、そして「不法侵入」してきた事物を味わうための「訓練」を詰むことだ。

 しかし問題はこの戦略が今日の情報社会では難しくなっているのではないか、ということだ。
「不法侵入」はレコメンド機能やフィルターバブルで機能不全に陥り、そしてSNSプラットフォームによる承認の交換の低コスト化は、事物そもものではなく事物についてのコミュニケーションのコストパフォーマンスを引き上げている。映画を観て、その結果自らの内面に発生した感情を分析して言葉にするよりも、他のユーザーと同じ映画を褒め「共感」を確認することの快楽のほうが遥かに低コストな割に、得られる快楽が大きい。要するに、内容よりも他の人が褒めているかどうか、を気にしたほうが「コスパがいい」のだ。

 では、どうするのか、というのが僕の問題意識だ。

 僕が一つの可能性として考えているのが、ものを「つくる」こと、つまり「制作」という回路を用いることだ。事物そのものを「味わう」ことがコストパフォーマンス的に選ばれることはもはや、難しい。しかし事物を「つくる」快楽はどうか。事物を「つくる」ことは「味わう」よりも、圧倒的にコストが高い。しかし、そのことで世界に関与していると人間に実感させる効果が高い。この回路を再評価することが、今日の低コストな承認の交換の「中毒」に陥った人類に、ポジティブな相対化の機会を与えるのではないか、という仮説だ。構造そのものは覆せなくとも、「制作」という回路が、一種の避難所としての役割を果たすのではないか、というわけだ。

 では、人間が「制作」に動機づけられるというのは、どういうことなのだろうか。

 たとえば1990年代に、『SLAM DUNK』の熱心な読者ーーと呼ぶにはいささかその熱量の高すぎる少女ーーが存在したとする。彼女は、それが実在しない、架空の人物たちであることを自覚しているにもかかわらず、その運命について毎日のように考えている。彼女はやがて、作中の登場人物のうち木暮と三井が友情ではなく、恋愛で結ばれることを妄想するようになる。しかし作者である井上雄彦は、小暮と三井の関係に性愛を介在させることはなく、決して決してそのような物語を描かない。やがて、『SLAM DUNK』の連載は終了し、小暮と三井の物語は描かれなくなる。そして、彼女は自らその物語を編むためにペンを執る。
 人間の精神には、ある事物を強く追求することにより、その理想形が内部に生じ、その事物をどれほど受け止めようとも現存のものでは満たされることができなくなる。このとき人間は多かれ少なかれ損なわれ、ときに傷つく。そして満たされない思いが、渇望が湧く。その対象を強く欲望し過ぎた結果として、その対象の理想形を想像し始める。これが「制作」の出発点になる。

 ここで重要なのはむしろ、人間が移動した先の環世界の中で満足していない、つまりその事物の「浪費」に失敗していることだ。人間が「制作」に動機づけられるためには、対象となる事物を「浪費」し、「満足」してはいけないのだ。移動した環世界の中で事物そのものに対し直接的に触れた結果として、「浪費」に失敗することーーその結果として、その事物の理想像が自己の内面に生じ、まだ世界に存在してもいないそれを渇望するようになることーーこれが、「制作」への動機づけの条件だ。

 さてここで問題となるのは、どのような条件下で人間は移動した先の環世界で事物を「浪費」することに「失敗」するのだろうか、という問題だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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