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「観る」のではなく「診る」ーー「庭師の仕事」から「制作する主体」を考える

昨日は『庭のかたちが生まれるとき』の著者で、庭師/美学者の山内朋樹さんと対談してきた。『庭のかたちが生まれるとき』は昨年話題を集めた本なので、既読の人も多いのではないかと思う。僕の書いた『庭の話』における「庭」はメタファーなのだけれど、山内さんの本の「庭」は本当に「庭」だ。山内さんは、庭師出身の研究者(美学)というユニークな経歴の持ち主なのだけれど、この本は彼がその師匠筋に当たる庭師(古川三盛)の手掛けた、ある作庭(京都福知山の観音寺大聖院庭園)に参加し、そこで行ったフィールドワークの記録に批評的な考察を加えたものだ。

『庭の話』における「庭」は比喩だとさんざん主張しておきながら、本当の「庭」の本を書いた人と何を話すのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。しかし僕は本が出たら一度、山内さんとしっかり話したいと思っていたのだ。既読の人はご存知だろうけれど、僕の書いた『庭の話』の「庭」はメタファーなのだけど、実際の「庭師」の仕事と思想に大きな影響を受けている。それがジル・クレマンというフランスの有名な庭師で、彼の著書『動いている庭』を翻訳し、日本に広く紹介したのが山内さんなのだ。なので、いまから7、8年ほど前に山内さんがクレマンを翻訳/紹介しなければ『庭の話』は誕生しなかったのだ。

山内さんとの対談の内容については、じきに動画と記事が上がると思うので、そちらを見ていただくとして、今日はそこで改めて考えたことを書いてみたい。

僕が『庭のかたちが生まれるとき』を読み、もっとも惹かれたのは庭師の古川さんが頻繁に用いる「〜してみて」という表現を山内さんが分析しているところの議論だ。「動詞テ形+みる」というこの表現を、山内さんは「見る」だけではなく「診る」という古川さんの対象物に対する認識の(無意識的な)現れだと考える。

なぜ「診る」か。この本を通して読むとよく分かるのだが、古川さんを始めとする庭師たちはあらかじめ設計図を用意して計画的に作庭を進めるのではなく、そこにある事物(石とか、草木とか)を見て(診て)はじめて庭の構想を考える。それも現場で全体の設計図を書くのではなく、まずある石を「仮置き」し、その石を基準に別の石を置き、また次の石(や草木)を配置し……と繰り返し、物同士のバランスを見ながら調整していく。その中で、最初に置かれた石も置き直されたりする。

「庭」には当然、全体を見渡せるような視点があるわけではないので、「関係する諸要素が、どれも正しい位置を取ることはできないが、しかしそれなりに見えること」が目指される。そのため山内さんは「庭」を「持続的な手入れに依存する仮説的な配置や程度のこと」と定義する。これは「関与できるが、支配できない」という僕が『庭の話』で提示した「庭の条件」の一つとほぼ同じ内容を述べているのだと思う。僕の考えた「条件」は人間から見たもので、山内さんの「定義」は物の側から見ているのだ。

古川さんたち庭師の仕事に話を戻すと、このような物同士の対話が連鎖することで、庭のかたちは半ば自動的に決まっていく。「庭師」の仕事はこの運動を開始するための「最初の一手」を打つこと、そしてその運動に時折介入することの2点に集約される。後者について、僕なりに言い換えるのならそれは、事物の生態系で事物間に発生するコミュニケーションの速度を、人間が認識しやすいものに変化させるーーあるときは速く、あるときは遅くーーするためにある。

ここで思い出してもらいたいのがチームラボ猪子寿之との対談本『人類を前に進めたい』や『庭の話』の連載版で展開したが単行本版ではカットしてしまったチームラボ論での議論だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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