戦争と一人の女、疫病と一人の男(庭の話 #16-3)
昨年末から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第16回です。過去の連載分は購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。(今回、長いので3分割しました。これが最後の1/3です。今月の購読すると全部読めます。)
4.疫病と一人の男
早くも忘れ去られているが、つい最近まで世界はコロナ・ショックの只中にあった。2020年初頭から中国を起点に流行をしはじめたウィルスは、またたく間にに拡大し世界的なパンデミックの様相を呈した。私は物書きとしても、メディアの主宰者としても、かなり最悪のタイミングでこのパンデミックを迎え、端的に述べればかなり酷い目に遭った。遭ったはずなのだけど、私の精神状態は決して悪くなかった。たしかに仕事はうまくいかなくなったことが多かったのだけど、むしろ精神は非常に落ち着いていて、こういってはなんだけれどむしろ普段より快調に日々を過ごしていた。もっと言ってしまえば、心のある部分は確実に生き生きとしていた。
正直に告白しよう。もちろん、そんなことがあっていいわけないことはよく分かっている。感染の拡大とそれに伴う社会の混乱が続けば続くほど、犠牲者の数は増えただろうし社会的混乱に伴う経済の停滞のもたらす間接的な被害の規模とその犠牲者の数は計り知れないものになったはずだ。私の仕事も総合的にはパンデミックが長引かないほうが有利だったはずだ。相応の損失を出したにもかかわらず、私は少しだけ、本当に少しだけだけど確実に思っていた。私はこの状況が続いて欲しいと、心のどこかでこの状況が続いてくれることを、ほんの少しだけ願っていたのだ。もちろんそれは間違った願望だ。しかし、心のどこかにそんな感情がたしかに、あった。それは紛れもない事実なのだ。
それは苦手な「飲み」の席が減ったとか、「足を運ぶ」ことを誠意の証とするような類の商談が減ったとか、そういった表面的なことだけではない。もっと根源的な部分で、私はこのパンデミックを前に心のどこかで胸を高まらせていたのだ。
坂口安吾の広く知られた小説に『戦争と一人の女』という短編がある。この小説は語り手の男性(野村)とある女性との、同棲生活を綴っている。物語の背景となるのは第二次世界大戦末期の日本の、とある都市だ。野村はそこで酒場で知り合った女性と暮らしているが、その関係は大戦末期の、破滅の予感を背景にした刹那的なものなのだと野村は述べる。
野村は水商売を続けてきたこの女性を、心のどこかで見下している。対して女性は野村を気に入り、彼の妻として「奥様ぐらし」に収まるのも悪くない、と考えている。この落差は二人の関係を不安定なものにしている。しかし少なくとも戦争が継続している間は、二人の関係は破綻しない。
ただ、誤解してはいけない。ここで描かれているのは「吊り橋効果」や「災害ユートピア」といった、危機に瀕した人々がその必要性から連帯するといった類の状況ではない。戦争という巨大な暴力の可能性が日常化した結果として発生した野村と女性、それぞれのまったく異なる複雑な心理と、その相互作用が関係を継続させている。
野村はこの戦争=関係の先に待っているのは、破滅でしかないと考えている。それも英雄的な悲劇ではなく何も生むこともなく、笑い話にもならない惨めで、そして凡庸な破滅だ。空襲の火災から、自宅と女性を守るという行為すらも、野村をエンパワーメント「しない」。彼は「さして感動してゐなかつた。感動はあつたが、そのあべこべの冷やかなものもあつた」と述べる。
この女性はいわゆる「不感症」で、そして野村はその原因を彼女が長く水商売をしていたからだと考えている。この野村の女性への考えは現代人の感覚からすると愕然とさせられる。しかし重要なのは、その「汚れた」過去から「不感症」になってしまった女性が当時の破滅へと向かう日本という国家と重ね合わされていることだ。野村にとって戦争(に敗れつつある日本)とは、先の見えた性的なパートナーの関係のようなものだ。そしてそのパートナー(女性)は不感症であり、性行為そそのものも生産的とは言えない。それはただただ、空疎なのだ。
しかしその一方で、野村はこの女性=破滅に向かう日本に奇妙な愛着を感じるようになる。
女性は野村が自分を見下していることを知っている。だから野村に執着しながらも、憎しみを抱いている。野村はその視線に、マゾヒスティックな快楽を見出しているのだ。
やがて野村はこの女性が、「遊ぶ」ことに「執念深い本能的な追求をもつて」いることに気づく。「バクチが好きである。ダンスが好きである。旅行が好きである」彼女は、空襲が常態化すると野村と二人で「遠い町の貸本屋で本を探して戻る」ようになる。野村はこの女性が「不具」(不感症)であるために、何も生むことのない精神的な刺激(遊び)を貪欲に求めていることに気づく。そして彼女がその「遊び」のひとつとして、自分との関係を位置づけていることにも気づく。それは女性が野村に執着を見せていることとは矛盾しない。さらに、女性はこの「遊び」=何も生まないものこそを求めていることにも。
野村はこの女性の「遊びがすべて」という考えに、反発と諦めにも似た共感を同時に覚える。女性がときに野村に憎しみの目を向けるのは、野村が「遊びを汚いと思つてゐる」ために、自分を見下しているのが分かからだ。
そして戦争は終わる。日本は敗北するが、野村も女も生き残る。野村は女性との関係が終わることを予感する。それも今は自分への執着を口にする女性が自ら他の男性のもとに去ることを予感する。「高められた何か」を欲し、「遊びを汚いと思つてゐる」野村とそう考えない女性との落差は埋まらない。野村が女性からの憎しみの目をマゾヒスティックな快楽に転化していたのは、その背景に戦争が存在していたからに他ならない。終末の予感が、野村を覚醒させていたのだ。
対して女性のほうはどうだろうか。坂口の『続・戦争と一人の女』ではこの女性の視点から野村との関係が描かれる。そこで、この女性は野村を評して述べる。
女性は野村が破滅の予感に支配されていたのだと考える。そして彼女は野村の女性に対する愛憎、執着と軽蔑を戦争に敗れようとしてる日本の姿と重ね合わせる。
一方で彼女自身は、戦争をこのように捉えている。
要するに、この女性は戦争のもたらす世界の変化そもののに感動しているのだ。自然の与える通常の変化よりも速く、不確実に発生するその変化(破壊)を知ることが彼女にとって最大の「遊び」なのだ。
私はこの女性の気持ちがよく、分かる。コロナ・ショックの渦中、私は一人の生活者として、このウイルスという目に見えない力が日常を侵食することを恐れていた。しかしその一方で、確実にこの日常性が侵食されることに、興奮を覚えていた。世界のルールが確実に書き換わっていることを、歓迎している自分がいた。私はこの間、社会不安に乗じて自身に関心を集める類の発信をまったく行っていない。多くの研究者や言論人が、ここぞとばかりに人々の不安に漬け込み新型コロナウイルスは大したことのないウイルスだとか、その逆に某グローバル企業の開発した殺人兵器であるとか、それが拡散されることを目的とした投稿を反復し集票や集金を試みたことは記憶に新しい。むしろ私はこうした現象に警鐘を鳴らす立場から発言を続けたが、その一方でこうした卑しく、表面的な事象とは別のレベルで世界が燃えるのを歓迎していたことは間違いない。
それはある意味、これはとても懐かしい空気、でもあった。そう、私はこの空気を、過去に確実に経験していた。それは2011年の3月に、この国を襲ったあの震災ーー東日本大震災後のものに、とても似ていたのだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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