「性愛」を経由しない対幻想(のポテンシャル)と「共同体ではなくチーム」を僕が選ぶ理由について
今日は昨日の三宅香帆さんとのトークショーで出た話題を延長して考えてみたい。それは「対幻想」をめぐる議論のことだ。2時間弱の対談で何度かこの話題に触れたのだけれど、たとえば僕は村上春樹が近年同性の「友人」を度々登場させていることに注目する。『ドライブ・マイ・カー』には高槻という青年が登場する。同作が収録されている『女のいない男たち』には、この高槻のように男性主人公の同性の「友人」的な存在が度々登場するのだが、この「友人」はかつての村上春樹の作品に登場した「鼠」や「五反田君」とは明らかに異なっている。彼らは主人公のオルターエゴで、つまり時代の変化に適応できずに自ら死を選ぶ彼らは主人公の鏡、つまり自己対話のための装置に過ぎない。
しかし、高槻などは少し違っているように僕は思う。端的に言えば、彼らは主人公にとって他者性の高い存在として現れる。村上春樹が女性を、自己と世界との蝶番としてしか描くことができず、そこに彼の女性差別的な感性が表れていることは長く批判されてきており、ここで付け加えるべきことはない。石原慎太郎が「強い自己」が女性を守ることでナルシシズムを獲得するのだとしたら、村上春樹は「弱い女性」が自己を必要とすることでナルシシズムを確保するのだ。
そのため村上にとって、そのナルシシズムの形成に寄与できない男性の「友人」的な存在は相対的に他者性が高くなる。そして主人公たちは男性の友人との関係性を透して、新しい世界と接する方法を模索する……のかと思いきや、その物語は展開せず、途中で放棄されてしまう。近年の村上作品にはこのパターンが多く、実質的なセルフパロディ以外書けなくなっている(そして権威化しているために、そのことを表立ってはほぼ指摘されない)問題の遠因となっている。
さて、ここでのポイントは村上にとって、男性の友人が「性愛を伴わない」対幻想の対象であることだろう。『共同幻想論』には2つの対幻想が登場する。それは親子夫婦的なもので、これは生殖を介して時間的な永続を体現する対幻想だ。もう一つは兄弟姉妹的なもので、これは生殖を介さずにむしろ空間的な広がりを体現する対幻想だ。対幻想が共同幻想に拡大するためには、この2つが「同致」される必要があるのだけれども、吉本隆明の解説は他の機会に譲ろう。
僕がもし、男性の友人というモチーフを村上がもっとしっかり追求していればよかったと思うのは、その空間の広がりというものが重要ではないかと考えるからだ。同性同士のつながりが悪しきホモソーシャルを生むのは、実のところはそれがその場にいない異性を含む「3人以上」になるときではないかと僕は思う。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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