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『庭の話』が100倍面白くなる自己解説テキスト

明日あたりから、早いところでは僕の1年ぶりの新刊『庭の話』が発売されます。

この本は僕のこれまでの本の中でもいちばんの難産で、『群像』の連載時から後半はほぼ書き変えています。(この辺の事情は、以下の記事に書いています……。本当にご迷惑をおかけしました。)

なので、本当にギリギリまでブラッシュアップしていて、そのせいでプロモーションが十分に準備できなかった……という悲しい事情があります。

そこで、今回はこの本についての自己解説のようなものを書いてみたいと思います。この『庭の話』はここ数年の僕の集大成的な一冊です。なので、この本について解説すると僕のこの数年の仕事が網羅できるようになります。2020年以降の『遅いインターネット』以降の情報社会論的な仕事や、都市開発についての研究会の主催(庭プロジェクト)や、『モノノメ』などの編集者としての仕事で得たものが、この本には集約されています。なので単に内容を紹介するだけではなくて、こうしたさまざまな仕事をどう一冊の本に組み込んでいったかというメイキング的な内容も付記していこうと思います。これはきっと、これから本を書いてみたいと思う人にも参考になると思います。

あと、これは悲しいことなのですが、「批評」の世界はかなり陰湿な世界で、党派のボスが若手や中堅などの取り巻きを連れて飲み歩いて、そこで取り巻きはボスの機嫌を取るためにボスの敵の悪口を(あることないこと含めて)口にして、ボスはそれを動画配信したりSNSに書いたりして、「いじめ」の快楽を読者とシェアする……といったほんとうにどうしようもないコミュニケーションが常態化している世界です。

実際に僕の書いたものも、そういった卑しい人たちに「◯◯さんの嫌いな宇野に石を投げておきました!」と言わんばかりのボスへのアピールに利用されがちです。なので放っておくと、たとえば本では慎重に「AとBとCではCがいま、相対的に有効だからもっと活用するべきだ」と書いたとしても、批判しやすいように「改変」して(あるいはそう読めるところだけを「切り抜いて」)「宇野はCだけを持ち上げて、AとBを不要だと言っている。これはけしからん」……といったような、僕が実際には主張してもいないことを「した」ことにして攻撃する批判が「界隈」の「空気」によってシェアされることになります。なので、先手を打って……というか、この本は特に「批評」好きの狭いコミュニティに向けては書かれていないので、もっと一般的な読者を対象にしたサブテキストを自分で書いてしまおう、と考えたのもこの解説集を書こうと思った理由の一つです(FAQのようなものだと思ってくれていいです)。

ちなみに、この解説文だけ読み「読んだつもり」になると痛い目を見るように工夫して書いているので、ちゃんと買って読んでください(笑)。

では、さっそくはじめていきます。


『庭の話』はどんな本か?


タイトルは「庭の話」ですが、園芸や環境保護の本ではなく、分野としては情報社会論の本ということになると思います。
具体的にはプラットフォーム資本主義の強すぎる力とどう付き合っていくか、という「大きな話」をケアとか民藝とかパターン・ランゲージとか、銭湯とか、ゴミ捨てとか、働き方とか、そういった身近な話を手がかりに考えています

これはたぶん、かなり変わったアプローチだと思います。いまプラットフォーム資本主義の副作用が、特に民主主義との食い合わせが悪いために世界中で噴出している……という理解は左右を問わず、ほぼ誰もが認めるところだと思います。

そしてこの問題に対しての「解」はだいたい2パターンに分かれています。それはプラットフォームのアーキテクチャがより「スマート」に進化すればいい、という経済、技術畑の人たちが支持しがちな「解」と、プラットフォームによって分断された個人を包摂する新しい「共同体」が必要だと考える政治、文化畑の人たちに好まれる「解」です。そして、困ったことにどちらの「解」の支持者も相手のことをバカだと思っている傾向があります。で、結論から言えば僕はこのどちらの「解」もあまりしっくり来ていません。それが、僕がこの本を書こうと思った動機のようなものです。

そこで、ここはちょっと搦め手的に方法を変えてみよう、と僕は考えました。前者(経済的、技術的なアプローチ)でも、後者(政治的、文学的なアプローチ)でもない第三の道……みたいなものはないか、と考えたのがこの『庭の話』です。これは言い換えれば、僕たちがどう生きるのか……という問題でもあります。

イギリスのジャーナリストであるデイビッド・グッドハートはいま、世界は「Anywhereな人びと」と「Somewhereな人びと」に分かれていると主張しています。前者は情報産業を中心としたグローバル資本主義のプレイヤーです。文字通り、彼らは世界市場のゲームを個人としてプレイする人びとで、国籍や所属組織も自分についている「タグ」くらいにしか感じていません(大半の人びとが「テスラのイーロン・マスク」だとは認識せず、「マスクがテスラもやっている」と認識している)。彼らはつまり「どこでも」生きていける人びとだということです。対して、人類の大半は20世紀的な労働者(ホワイトカラーも含む)で、個人という単位ではなく組織を通じて働いています。市場を通して社会にかかわっているという実感は少なく、民主主義下における選挙の一票やSNSや街頭で「声を上げる」ことがいちばん「実感」しやすい最大の世界への関与です。そんな彼らは「どこかでないと」生きていけない人びとです。

つまり、前者は「お前たちも強く自立しろ」と無茶なことを言い(それって、あなたが成功した自分を誇りたいだけでは……?)、後者はそんな彼らをひがんで彼らの活躍できない世界に引き戻そうとします(醜い……)。じゃあ、どうするか、ということを僕はこの本で考えたのです(こういうふうに言い換えると、大きな話が「身近」に感じられませんか?)。

具体的に僕がこの本で検討しているのは、市場からの「評価」にも、共同体からの「承認」にも依存しない第三の回路です。もちろん、どちらも人間に必要なもので、それらをゼロにしようなんて考えていません。ただ、この第三の回路がしっかり発達していると、僕がここで述べているような社会の分断のようなものはもう少し解消され、ぐっと生きやすくなるのではないか……ということを考えたのです。

それでは、以降1章ずつ紹介していきます。


第1章 プラットフォームから「庭」へ

ここはいわゆる「問題設定」の章です。若い頃の僕はもっともったいつけた「序章」のようなものを書くのがかっこいいし、読者にとっても親切(序章で問題設定をして、以降でそれを検討する……)だと考えていたのですが、最近は最初から順番に読んでいくと内容がしっかり伝わるように書けば、別に構成レベルで「この章は問題設定ですよ」と宣言しなくてもいいのではと考えるようになって「序章」はつけなくなりました。

単行本版の担当(連載時と単行本版の担当が、多くの出版社では別になる)の横山さんからは、1章だけ長い(他の章の2倍以上ある)から分割したいと言われたのですが、拒否させてもらいました。それはこの章だけが「問題設定」編で独立した内容なので、一気に読ませることに意味があると考えたからです。

長い序章ですが、ポイントはトランプ現象のような現代的なポピュリズムの問題の背景には、グローバル資本主義の構造があり……といった、教科書的なことではなくこの構造の中核にある問題とは、情報技術が吉本隆明のいう「関係の絶対性」を圧倒的に強化してしまっている……という問題だということです。そしてこれを相対化するには、人間同士の承認の交換や相互評価のゲーム「そのもの」から人間を一時的にでも引き離す回路が有効ではないか……と考えているところです。それが前述の「市場からの評価」でも、「共同体からの承認」でもない第三の回路が必要だ……という議論につながっていくことになります。



第2章 「動いている庭」と多自然ガーデニング


ここはジル・クレマンとエマ・マリスを援用しながら、人間と「事物」がコミュニケーションをするとはどういうことか、について考えた章です。要するに、僕たちは気候変動リスクに対応せよ、という「意識の高い」掛け声に思考停止して、とりあえず地表を緑で塗りたくればいいと考えがちなのですが、そういうことじゃないだろう、ということが前提にあって、そしてそれは環境保護の問題だけではなく、僕たちの社会の側にも当てはまるのではないか、ということが言いたかったのです。クレマンがあらかじめ自身の設計図に基づいて作庭するのではなく、偶然そこに発生した現象「から」全体の作庭を考えていくように、最初からすべてを設計するのでもなければ、すべてを受け入れて「あるがまま」にするのでもないアプローチを考える、というのが根本の発想です。

さすがにこのレベルの誤解をする人はいないと思いますが、「庭」は比喩であり、別に僕は自然に親しむのが良いとか、そういうことが言いたいわけではもちろんありません。ちょっと分かりづらいかもしれませんが、この本で僕が考えているのは人間と人間外の「事物」とのコミュニケーションを通して初めて得られるものを用いて、人間同士の関係性≒関係の絶対性を相対化することです。たぶん、最後まで読むと、ここでなぜ僕がクレマンやマリスの話をしていたのかが、この補助線が必要だったのかが分かるはずです。



第3章 庭の条件


前半1/3のまとめの章です。人間が人間とばかりコミュニケーションをしていると(「評価」や「承認」ばかり交換していると)バカになる、だから事物とのコミュニケーションをうまく使おう、というのが第1章で、そのために作庭や環境保護運動の知恵を拝借しよう、というのが第2章で、第3章はそれを実際の社会に応用するために抽象化しています。フィルターバブルの弊害とか、AmazonやNetflixのリコメンドではなかなか自分を広げてくれる固有名詞に出会えないとか、そういう批判はよく聞きますが、その対応策がより閉鎖的でローカルな共同体や、個人経営の書店であるとは、僕にはどうしても思えません(それって、より狭い事物の生態系に閉じ込められるだけでは……?)。じゃあ、どうするかというのを前章の庭師や生態学者の知恵を借りながら考えたのがこの章です。



第4章 「ムジナの庭」と事物のコレクティフ


この「庭の話」の前半は編集者としての僕の側面が強く出た本で、特にこの4章と5章はそうだと思います。この章は「ムジナの庭」というB型の就労支援施設を、僕の主催する雑誌の記事を作るために取材したときのエピソードから始まるのですが、このエピソードはこのあとに出てくる都市の「庭」的な場所の具体例を論じていく箇所に統合しようと考えたこともありました。でも、結局連載時と同じようにこの位置に置きました。理由は、僕が考えていった順番を追いかけるほうが、読者に分かりやすいと考えたのと、「人間と人間」だけではなく「人間と事物」との関係で人間を支えるとはどういうことか……という実例を早い段階で紹介するほうがいいと考えたからです。



第5章 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ


この5章は4章の解説編的に始まります。鞍田崇さんの民藝論と、その鞍田さんの民藝論を取り込んだ井庭崇さんのパターン・ランゲージ論を僕がさらに取り込む、という構成になっています。解説するなら、鞍田さんは100年前の「民藝」運動を手がかりに、現代社会における「もの(事物)」とのコミュニケーションを通じた「ケア」を構想していて、井庭さんはその鞍田さんの民藝論を下敷きに自身のパターン・ランゲージ研究に、ものごと(事物)を「つくる」ことの日常化のようなことを考えています。井庭さんのこの「創造社会論」は実は僕の「遅いインターネット」論への建設的な批判になっていて、現代の承認の交換の場となったSNS以降のインターネットに絶望し、ベタな啓蒙に舵を切った僕に対して「いやいや、宇野さん。誰もがもっとカジュアルに物事を〈つくる〉社会を目指すという、初期インターネット的な理想は死んでいないですよ」と迫ったわけです。僕はこの井庭さんの建設的な批判にまず喜んで100%白旗を振り、その上でさらに建設的な批判を、つまり「創造社会」の成立条件を問い直したのが6章以降の展開です。そしてそれは具体的には國分功一郎論として展開されます。



第6章 「浪費」から「制作」へ


この本の前半のハイライトがこの6章と続く7章です。要するに、人間と事物とのコミュニケーションを用いた「ケア」の中核には、ものを「つくる」こと、つまり「制作」があります。これがないと、人間間の「評価」や「承認」を相対化できず、そして人間間の「評価」「承認」のゲームとして駆動するプラットフォーム資本主義とうまく付き合っていくこともできない……というわけです。しかし問題は、インターネットからSNSへの移行時に明らかになったように、ものを「つくる」動機を持った人間などほとんどいない、ということです(だから悪口と自慢しかしない)。じゃあ、どうすればいいのか……。

ここで召喚されるのが國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』です。僕は彼と個人的に親しいのですが、いまから10年以上前に『暇と退屈の倫理学』の草稿を読ませてもらってから、これは僕みたいな「オタク」のことを直接的にではないが論じている本なのではないか、と思いました。なぜオタクは、飽きもせずに好きなものに執着するのか。國分さん的に言えば「満足」しないのか。その「満足」しない感情がいつか手を動かして「制作」に転じる条件はなにか。そんな問題について、12年間くらい考えたことの集大成がこの章です。

不思議なことに、『暇と退屈の倫理学』はこの10年で最も読まれた哲学書であるにもかかわらず、その割にはほとんど議論が存在しません。社会思想家としての國分功一郎を、この国の読書界や論壇はやや持て余しているのではないか。しかし直感的にこの本の重要性は多くの読者が理解しているはず……そんな思いを僕はずっと抱いていました。そんな憤りのようなものが、この章を書かせたことも付記しておきたいです。



第7章 すでに回復されている「中動態の世界」


前章に続いて國分論です。『暇と退屈の倫理学』と同じように、『中動態の世界』も、その存在感の割にケア関係のものを除くとあまりリアクションがない本だと思います。しかし事実上の続編である熊谷晋一郎との共著『〈責任〉の生成』も含め、僕はこれらの議論は現代の情報社会を考える上で大事な本だと思っています。それは要するに、今日の情報技術はむしろ人間を「能動態/受動態」ではなく「能動態/中動態」のパースペクティブで捉えており、そのために「責任」概念が大きく揺らいでいるからです。國分/熊谷の議論は、この状況下において「責任」概念を成立させるための「ケア」の提案として読むべきだというのが僕の立場で、要するに『中動態の世界』は回復されるべき目標(よく読むと國分さんはそうは主張していなく、「いい話」が好きな人が誤読しているだけなのですが)ではなく、既に僕たちを支配している「現実」なのです。では、この「既に回復されている中動態の世界」における「制作」とその動機付けはどのように機能させるべきか……ということをこの章では論じています。この章と前章は「國分功一郎、その可能性の中心」のつもりで書きました。國分さんには迷惑だったかもしれないですが、彼の社会思想的な仕事にはこれくらいの射程の長さがあると僕は思っています。



第8章 「家」から「庭」へ


ここからが後半戦です。プラットフォームに対抗できる「庭」的な場所の条件を前半では考えていきましたが、そこでたどり着いたのは、そこが「共同体」であってはいけない、というものです。誤解してほしくないのですが、別に僕は共同体が不要だとは一切主張していません。共同体は人間がどうしても生んでしまうものですし、そこから完全に逃れることはできません。しかし……というか、だからこそ人間がそこから自由になれる時間と場所「も」必要です。これが僕の立場で、わざわざここに書いたのは、ここが一番「批判しやすいように脚色されて」攻撃に使われそうだと思ったからです(笑)。仮に僕が人間は共同体から自立した強い個であれ、とマッチョな主張をしているのならツッコミどころだらけでしょうが、そんなことは1ミリも考えていませんし、書いてもいません。むしろ逆にどう「強く」ならずに自立するのか、共同体から一瞬でも自由になれる時間と場所を確保するのか……というのがこの章のテーマなのです。



第9章 孤独について


そもそも僕は資本主義と情報技術により、個人化が加速する現代に対して共同体を再興して対抗しよう、という言説に懐疑的です。大抵の場合、そういうことを口にするのは社会的な強者で、そりゃあ、あなたの社会的な地位や経済力を用いれば、あなたがボスの(あるいは悪くない位置の)さぞかし気持ちの良い共同体ができるでしょう……とかしか思わないです。贈与経済を持つ共同体が階層を持たない……という主張にも懐疑的で、じゃあ、そういう「前近代的とされるが、実は現代人の忘れた大切なものを持っている共同体」の女性や子供などマイノリティの権利や、相対的に不利な状況にある「弱い」人間へのサポートが十分に保証されているか、そして思想や良心や精神の自由がどれくらい保証されているかを考えてみればいいと思います。お前のその発想自体が近代的な「個」にとらわれているのだと説教してくる人がいるかもしれませんが、そういう人はぜひとも、寡婦を火あぶりにする風習を持つ共同体に転生して、実際に火あぶりを受け入れていただきたいものだと思います。

延々と嫌味を書いてしまいましたが、実はこの問題は深刻で、むしろビジネス系のイベントやメディアで、この種の「贈与経済を用いた新しい共同体と資本主義」みたいな議論は、お客さんがあまりこういう話に詳しくないのを利用して大きな顔をしていたりします。そういう話が好きな人は資産を全額寄付して、社会的地位も捨てて、町内会の飲み会に参加しないとゴミ捨て場も使わせてもらえないような集落に移住して、年収100万円台くらいで生活してほしいです。地域の人から分けてもらえる野菜とかを食べながら、きっと幸福に……と書き出すと止まらないので、このへんで止めておきます。


第10章 プラットフォームから(コモンズではなく)庭へ


ここでは「イーロン・マスク問題」を論じています。つまり、一企業のサービスにすぎないものが、結果的に公共の場になってしまうことのリスクに、いま人類は直面しています。しかし僕の考えでは、SNSは私有されたものである「にもかかわらず」公共性を帯びてしまったのではなく、私有されたものであるから「こそ」公共性を帯びてしまったのです。この章ではそのメカニズムについて考えたうえで、これまで論じてきた「庭」的な場所をどう機能させ、プラットフォームに対抗していくのか……という話をしています。前述の「ムジナの庭」に加え、高円寺の小杉湯、喫茶ランドリー、鎌倉市のサーキュラーエコノミーの取り組み……などの僕が取材してきた実例を、その弱点も含めてシビアに検討しています。その結果が次章以降の(超)展開につながっていきます。本当はここで、「このような戦略に基づいてまちづくりをがんばろう」と宣言して終わる、というのもアリでした。そのほうが「分かりやすい」本になったのですが、批評家としての自分が「ここで徹底して考えないとダメだ」と脳内で囁いて、次章以降の「超」展開に向かっていくことになってしまったのです。しかし、この終盤の展開があるからこの『庭の話』は『庭の話』たり得ていると思います。



第11章 戦争と一人の女、疫病と一人の男


いきなり文芸批評になって驚いた人もいると思いますが、僕はこの章が一番気に入っている章です。要するに、プラットフォームの強すぎる力というのは、人間を恐ろしいほど低コストにほんの少しでも世界に関与させる力、正確にはそのことを可視化して、実感させる力です。人類のかなりの割合が、このインスタントな快楽の中毒になっている。では、これをもっとも強く、決定的に相対化するものは何か……それは、残念ながら「庭」的な場所を都市に作り続け、そのネットワーク(交通空間)をもってしてSNSプラットフォームの作り上げるグローバル・ビレッジを内破すること……ではなく、むしろ間違いなく「戦争」のような大状況です。もちろん、「戦争」をすればいいとは当然なりません。ですから、「戦争」ではない方法を考えていくべきで、だからやっぱり「庭」的なものが必要……ということになります。

ここでこの本の「ラスボス」として登場するのが、坂口安吾の『戦争と一人の女』に登場する戦争を「うつくしい」ととらえる一人の女性です。彼女の欲望、つまり世界がただ燃える(変化する)のを観たいという欲望は、間違いなくこれまで扱ってきたどの「庭」の条件よりも強く、関係(評価や承認)の絶対性を相対化します。つまり、彼女を「戦争」で「ではない」もので満たすことができたら、彼女の「平時の恋人」を見つけることができたら、プラットフォームに対する決定的な相対化の一撃を加える方法が見つかるのではないか……。そう、この本の「ラスボス」はトランプでもイーロン・マスクでもなく「彼女」なのです。

そして、どう考えても「庭」のネットワークが彼女の恋人になるのは不可能だというのが僕の結論で、「庭の話」はこの11章で「敗北宣言」をして終わります(笑)。



第12章 弱い自立


かくして前章で「庭の話」は敗北宣言をして終わるわけですが、もちろん、本は終わらなくてまだ続きます。これは当然意図的にやった演出で、どうも世の中の人はいま、フィルターバブルの影響か、自分の武器が「万能」だと思いすぎているように思います。

たとえば一般的にというか、言葉の定義を考えると「批評」の枠を問い直すのが批評であり、「人文系」とか自己規定しないのが人文的な態度である……というのはそれほど難しい議論ではないと思います。しかし、昨今の言論空間ではコンプレックス層を動員できるという経済的な合理性のために、こうしたメタ的な意識は「なくていい(あっても邪魔)」というコンセンサスがいつの間にか出来上がっているように思えるのです。しかしそれって「自分たちって知的で繊細だよね」と飲み会で慰め合うコミュニティ以上のものを生まないのは自明で、僕は端的に軽蔑しか感じません。

やっぱり大事なのは自分の武器の限界を把握することです。どれだけ優れた刺身包丁でも林檎の皮をむくのには向いていません。この程度のことをプライドが高すぎて認めなかったり、あまり詳しくない人を騙すためにあえて認めなかったりする人が、ちょっと多すぎるのではないかと僕は思っています。それで「庭の話」でカバーできるのは「ここまで」だと自分ではっきり書いてしまおうと思ったわけです。そして「続きは別の本で……」というのも無責任なので、じゃあどうすれば「庭の話」を補えるのかを書いて終わろう、と考えました。

そしてここから先がまさかの第二部スタートです。これまでが「庭の話」ならここからは「人の話」です。冒頭の市場からの「評価」でも、共同体からの「承認」でもない第三の回路を「庭」の条件ではなく、そこに訪れる「人」の側から考えています(もちろん、これは「庭」的な場所のネットワークが交通空間を回復するという前提で考えられているので、これまでの「庭の話」は「前提」として必要になります)。


第13章 「消費」から「制作」へ


そしてこの「弱い自立」の最重要の鍵になるものが……前半で、つまり「庭」を考える上でも一番重要な役割を果たした事物を「つくる」という回路、つまり「制作」です。「庭」により「制作」に動機づけられた人間が、どう「制作」を通じて市場からの「評価」でも、共同体からの「承認」でもない第三の世界とのかかわり方を見つけられるのかという問いを、ここでは吉本隆明に立ち返って(そして糸井重里はなぜ「ああなって」しまったのかという問題を通して)考えています。この「制作」を通じた世界への関与がもたらす快楽が、ハードルは高いが唯一、彼女の「平時の恋人」たり得る……それが僕の回答です。


第14章 「庭の条件」から「人間の条件」へ


最終章です。では、この「制作」を十分に機能させるために何が必要か……をハンナ・アーレントの『人間の条件』や近年の労働社会学を援用して論じています。つまり「庭の条件」を機能させるための、そこに訪れる「人間の条件」を考えるのがこの最終章です。アーレントの『人間の条件』では、人間の活動が「労働」(糧を得る活動)、「制作」(事物を作り環境を変える活動)、「行為」(政治的な活動)に分類されます。いま、「労働」は情報技術の介入で、グローバル資本主義に適応した個人(Anywhereな人びと)に対する「市場からの評価」が可視化されるというかたちでエンパワーメントされています。そして「行為」は、それができない大半の人びと(Somewhereな人びと)が、せめてローカルな国家という共同体に自分の承認を求めてSNSプラットフォームに投稿する……つまり「行為」の中毒になってしまっている状況です。もちろん、発言すること自体は素晴らしいことですが、敵を殴り、味方に承認されることが目的になってしまっている人が大量発生し、彼らを「動員」することがポピュリストの常套手段になっています。そこで僕は、残された「制作」をしっかりエンパワーメントする方法を最後に考えています。そしてそこで大きな役割を果たすのが「労働」と「行為」という他の2つの活動です。ここは我ながら鮮やかにキマっていると思うので、ぜひ本で確認してみてください。




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宇野常寛
僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。