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「ものづくり(制作)の現場では〈評価〉はあればラッキー、くらいの気持ちでいる人がものすごく多い」問題をどう〈評価〉するか
今日は昨日の議論の続きだ。
かいつまんで述べると、僕は今日の思想的なトレンドである左右を問わない共同体回帰に対して、極めて懐疑的だ。それが基本的に、市場経済が可能にした共同体から個人への生きる単位の変化の与えた「自由」の価値を、低く見積もりすぎているよう思えるから、そしてそれが共同体の中心ではなく周辺に配置された「弱者」の視点を欠いた議論のように思えるからだ。
したがって、僕は共同体からの承認ではなく社会からの、より具体的には市場からの評価を人間はアイデンティティの基盤にすることを想定した世の中を維持するべきだと思っている。
しかしこれは今日のメリトクラシーを是認し、自分は強者だと自慢するのが気持ちよくて弱肉強食の世界を肯定する日本維新の会的なメンタリティを肯定することを意味しない。むしろ逆で、僕はこういった新自由主義的なマッチョイズムを、共同体に回帰せずにどう批判できる(オルタナティブを提示できる)かを考えているのだ。
それが前回論じた「評価」のハードルを下げるという論点だ。共同体からの承認が数名のグループからのものでも(持続性はともかく、それなりに)機能するように、市場からの評価も小規模でも機能する。
重要なのは、個人が世界に関与し得るという「手触り」のようなものだ。要するに僕はすっかり「勤め人」ばかりになったこの産業社会を、別に意識高く「起業」とかさせなくても、副業や複業で「弱く」「ゆるく」自立させるモデルがある程度有効だと考えてるのだ。
もちろん「ある程度」で十分だ。SNSで発信する快楽を覚えたにもかかわらず、考える力の弱い人は、完全無欠な解決策が示されない限り「その考えは○○という弱点がある」とドヤ顔で(たいていはその人本人がすでに自分で指摘してる問題をよく読まずに)指摘して、「こいつよりも自分が賢い」とアピールする。いわゆる「バカ丸出し」とはこのことなのだけど、当然大事なのは「ある程度だけれど、効果が期待できる」手法をどんどん試してみることだ。(ひとつの解決策ですべてが補えると考えるのは、単に知識と思考力の欠如だ。)
さて、今日の本題はそこではなく、もう少し突っ込んだ話だ。「……である」ではなく「……する」ということにアイデンティを置く、というモデルを僕はひとまず市場からの「評価」と結びつけた。しかし、厳密に考えるとここは「そうでもない」のではないかと思うのだ。
評価を期待するというのは「……する」ことの強い動機になる。しかし、「それだけ」だろうか。実際ものづくり(制作)の現場では「評価」はあればラッキー、くらいの気持ちで「する」人がものすごく多い。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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