「冷笑」のルーツを考えるーー吉本隆明から糸井重里へ
さて、昨日はネットの「冷笑系」と、団塊ジュニア(とその前後)世代男性のアイデンティティについて分析したのだが、今日はこの問題をもう少し違った角度から考えてみたい。
現代日本の言論空間における最大のガンであるところの「冷笑系」のメンタリティが、この世代の男性に顕著な「被害者意識」の回復と結びついているというのが、前回の論旨だ。「失われた30年」とジェンダーギャップの相対的な解消(特に後者)により、自分が手にできるはずのものを「損なわれてしまった」と感じる男性たちが、その尊厳を守るために、「自分は強い、賢い」と思い込もうとする。そのために、後出しジャンケン的に負けた方、不利な方、弱い方にダメ出しして「だからリベラルはだめなんだよ」と「冷笑」し、「現実が分かっているオレ」を強いものに媚びることで自他に言い聞かせるのだ。醜悪極まりないが、これが今日のSNS社会においてもっとも「コスパの良い」(男性的な)尊厳の回復方法であり、それを理解してこのタイプのコンプレックス層に課金させる/票田にする悪質なメディアや政治家も多い。これが「冷笑」のメカニズムだ。
そして僕は第二次安倍政権を支えたのは、「ネトウヨ」よりもむしろこの「冷笑」文化だと考えている。古谷経衡さんがよく指摘しているように、「ネトウヨ」はせいぜい国民の2%前後に過ぎない。問題なのは、むしろこの「ネトウヨ」を批判する「リベラル」を、「あいつらがまた優等生ぶってネトウヨを批判している」と、「冷笑」していた層なのだ。この「コスパよく」負けた側を後出しジャンケンで叩く「冷笑」こそが、「現実を分かっているオレは安定政権ならなんでも、つまり安倍政権でOK」という態度に結びついていったのだと思う。その結果が、一方では公文書の書き換えや取り巻きのレイプもみ消しまでやりたい放題の国政の私物化につながり、もう一方ではこの2024年になっても選択的夫婦別姓もライドシェアもない「停滞した日本」をもたらしたのだ。
さて、今日の本題はこの「〈冷笑〉というマジョリティ」のルーツの話だ。前回述べたように、この「冷笑」文化のルーツのひとつは90年代の「新しい歴史教科書をつくる会」などと同じ、戦後日本人男性の「損なわれた」という被害者意識だ。この被害者意識が「父」だとすると、「母」の話を今日はしたい。それは、吉本隆明的な左翼批判の文脈、おそらく今日においては糸井重里という固有名詞に象徴される、団塊世代を中心とした戦後中流の「脱政治性」にほかならない。
半世紀前に、吉本隆明は連合赤軍事件の象徴する学生反乱の行き詰まりに対して、若者たちが革命を捨て、日常に回帰するための理論武装を提供した。
それが共同幻想(イデオロギー)から自立するために対幻想(家族)に依存したアイデンティティに切り替えるという戦略だ。つまり、「革命の子」として滅私奉公するのではなく、これからは「妻子を守る」ことを優先して、政治的なものから「自立」するというわけだ。しかしこの「自立」のプランは単に、職場では「組織の犬」になり家庭では(戦前よりいささかマイルドにはなったものの)妻子相手にふんぞり返るどうしようもない「ニッポンのお父さん」しか産まなかった。そしてこのタイプの「お父さん」はいまも、オーナーや管理職だけが楽しい飲み会やパパだけが楽しい家族旅行で、たくさんの弱い人を苦しめている。
要するに、吉本は近代社会というものが分人的に複数の場に所属できるものであることを、過小評価していて、「家族」中心主義者は「職場」や「政治勢力」からは自立できると考えたのだが、そんなことはなかったのだ。(彼らは「妻子を守る」ためにこそ職場では「ネジや歯車」になったのだ。)
吉本はこの失敗を経て、80年代には今度は「消費」を通じて「個人」が自立することを提案する。
つまり「好きなものを自己責任で買う」ことが共同体や国家から「自立」した主体をつくる、というわけだ。これはまだ、「消費」が真新しかった当時だからこそ機能した戦略で、「消費」が当たり前になった現代ではその威力は発揮されない。それどころか「モノ」消費にこだわっている人はちょっとイタい人くらいに思われる。
しかしここをアップデートしてまだまだいけると考えたのが糸井重里だ。吉本思想の実践者である糸井は、モノではなくコト、つまり商品ではなく商品に付随する「いい話」の力でモノを売るのだ。そして「暮らし」を楽しむと「中くらい」の「ゴキゲン」が手に入る……それが「ほぼ日」だ。
この糸井の仮想敵は政治的な「正しさ」だ。「消費」のもつ楽しさの力で「正しさ」から距離を取る。それが、糸井の戦略だ。しかしモノの「消費」はいま、色褪せている。だからコト=物語が必要だ。もっともコスパのいい(かんたんに人間を強く動かす)コトは「正しさ」だ。でも、これは糸井は使いたくない。ではどうするか。
糸井はそこで「何であるか」ではなく「どう語るか」の次元で勝負する。だから「ほぼ日」のコンテンツは基本的につまらない。というか字数の割に内容が薄い。でも、そこがポイントだ。「ほぼ日」のコンテンツの魅力は「内容」ではなくその「語り口」だ。どんな対象でもーーカレー粉でも、復興でも、吉本隆明でもーー「こんなふうに」語るのが「気持ちいい」というその「語り方」を見せているのだ。これはこれで、僕も本当に学ぶことが多いのだけれど、やっぱり疑問がある。
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