SNSの時代に世界にとって必要な「批評」とはどういうものか、改めて考えてみた話
今日は昨日に続いて「批評」について考えてみたい。いや、まあ「批評」という言葉を神聖化しても仕方ないのだけれど、僕なりに長くこの仕事をしているので、考えることは多い。たとえば僕は書き手の傍らマイナーな媒体をもう10年以上運営してきているのだけれど、よく考えるのは「僕らみたいな媒体じゃないとできないこと」はなんだろうか、ということなのだ。
最悪なのは「その少し前に流行った本のタームを使って別のもの(自分の好きなもの)を論じる」ような企画(そうすることで「界隈」から認められたいという気持ちを隠せない文章)だ。
こうしている今も、noteでも批評好きの若者がたくさんそういう記事を書いていると思うのだけど、ある程度の年齢でそういうものを書きたくなっているとしたら、君はあまりものを書く仕事に向いていない。もっと言ってしまえば、その時点で才能がない。なので、やめたほうがいいと思う。君が求めているのは表面的なコミュニケーションによる承認で、それ以上のものではない。これを認めるのはなかなか厳しいと思うけれど、誰も見ていないところでコッソリ「友達の作り方」でも研究したほうがいいと思う。
しかしこのとき取り上げる対象がまだ「好きなもの」をだったらマシなのかもしれない。「このタームを使えば、既にタイムラインでヒーローになっているあの人のように「正義」の名のもとに誰かを貶めることができる。さあ、自分が認められたい界隈に嫌われているあの人の過去の発言から炎上させられそうな発言を探してみよう……」とか考え始めたら最悪だ。
実際にそうやって誰かを貶めて自分が成り上がろうとする人も、現在の情報環境下ではどうしても多くなってしまうけれど、 端的に言ってそういう人たちはいなくなってしまえばいいと思う。
それは、本当に必要な「声を上げる」アクションと一見似ているけれど、じつは全く違う。むしろ本当に「声を上げる」ことが必要な人たちの信頼を低下させてしまうだろう。
次に良くないのは、メジャーなものをバカにしながら実はメジャーなシーンをしっかり睨んで「玄人にバカにされないもの」を一生懸命考えてしまうパターンだ。こういった結局「業界」からの承認しかもとめていない人間が玄人筋に「いい趣味だね」と思ってもらいたくて考えたような企画ほど、薄っぺらいものはない。
じゃあ、何をすべきか。気持ちは分かるし、僕もそういう方向に傾いたこともあるのだけれど、「単に好きなことをやる」というのも少し違う。それはスタートであってゴールではない。僕の考えは「本来メジャーシーンがやるべきだけれどやってこなかったものをやる」ことだ。この二つが重なり合ったとき、自分が書くたくてかつ、世界にとって大きな意味があるものになる。
昔話をしても仕方ないのだけれど、僕にとっては「平成仮面ライダー」批評がそうだった。当時僕はアギトや龍騎や555のすさまじさを世界に訴えずには死ねない、と思い詰めていた。そしてそれは、メジャーなシーンでいくらでもやれたはずなのにほとんど誰もやっていない仕事だった。だからそれは僕にとっても、世界にとっても意味の大きな仕事になった。同じようなことが富野由悠季や押井守についての批評にも言えるだろう。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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