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環境問題を考える廃棄物アートの公募、COIL Upcycle Art Contestの存在意義(2.廃棄物課題の現実と向き合う)

廃棄物管理の本質を考えてみる。

廃棄物管理の視点で見ると、日本はゴミ削減と3R導入を越え、循環型経済の構築という段階に立っている。埋め立てや焼却などの直接的な廃棄物管理に関する課題は主に途上国に該当し、先進国は世界を先導する立場として、いわば未来のためのしくみ構築をしなければならないのである、

出典:2011年廃棄物管理国際会議の発表をもとに作成/JICA「世界のごみの現状を知る」

私たちが1度は聞いたことがある言葉、3R。

3R(抑制・再利用・再資源化)という言葉は、90年代生まれの私にとっては義務教育時代から学んできたのでよく知っているつもりだ。

その3Rを実現するために私たちは自治体の定める分別・排出方法に従ってゴミを捨てている訳だが、そもそもなぜ3Rなのか、考えたことがある人はどれだけいるだろうか?

一度、再認識のため記したいと思う。

資源循環の本質的目的は、2つある。1つ目は、限りある(であろう)地球資源を無駄にすることなく使うこと。2つ目は、地球での廃棄物発生量が許容範囲を超えたため、なるべく循環させることで資源を捨てないようにすることである。

エコロジカル・フットプリント(*1)によると、現在人類が必要とする消費量を賄うために必要な生産性のある土地面積は、各国の平均値で地球1.8個分、日本の場合はなんと2.8個分である。

これは、地球の生産性を大幅に超える程の大量消費を日本がしているという現実を示す。生産されたものはいずれ捨てられるので、廃棄量に関しても、すでに地球の許容範囲を大幅に超えていると言う事ができるだろう。

なので、もったいないからなるべく捨てないようにしよう、というレベルではなく、大量生産・大量消費・大量廃棄が本来のキャパを越えているから今すぐどうにかしなければいけないというレベルの問題なのである。

有名な例え話で、熱湯にカエルを入れると熱さのあまり慌てて飛び出るが、水からじわじわと温めると温度が上がるのに気づかず、やがて茹で上がって死んでしまうというのがある。

私たちはこの「環境問題どうにかしなきゃね」という状態をもう数10年続けている中で、茹で上がるのに気づかず破滅してしまうのは、もはや時間の問題である。

(*1)エコロジカル・フットプリント:木材などを生産している森林や、魚介類などをもたらす海洋、農場、牧草地といった、現在人類が消費している物を生み出すために必要な、生産性のある「土地」を、架空の面積に置き換えたもの。(出典:WWF JAPAN)


3Rから5Rへ。日本の現在地と課題

従来型のリニア型経済(大量生産→大量廃棄の一方型経済システム)では「大量生産と大量消費こそが経済発展に繋がる」とされてきていたのだが、環境問題と人類の活動との因果関係が証明された現在は、環境問題の解決のためのその2つを切り切り離して考えることが必須とされている

大量生産は消費と廃棄を加速させ、大量消費・大量廃棄の習慣化と、さらなる大量生産を生む。今の世界の現状と循環型経済が解決できる課題はここにあるとされている。

そんな中、数年前から国際的に普及しつつあるのが、3Rではなく5Rというワード。従来の3Rだけでは事足りなくなったので、Refuse(不要なものは買わない)とRepair(修理して長く使う)を追加し、新たな行動目標としようというものだ。

5Rについて

先進国日本に住む私たちは、生まれながらに物が豊かな社会の中で暮らしている。お金さえあればいつでも欲しい物が手に入る社会。便利さに慣れ、使い捨てが習慣化し、終わりのない物欲が肯定される社会。

いくら国や民間が3R(ゴミ発生の抑制・再利用・再資源化)を頑張ったところで、果てしなく発生し続ける人の消費量を減らすことが出来なければ、その場しのぎの策でしかないのは明確である。

5Rで追加されたこの2つを核心的な目標として人々が動き出すとき、循環型経済の実現をただの夢物語で終わらせることなく実現に向かうことができるのではと思う。

もちろんこれは一般消費者、動脈産業、静脈産業に関わる経済システムに関わる全ての人が共に動き出すという前提があるため甚だ気が遠くなる作業である。そういう現実も踏まえて、是非知っていただきたい。

個々の自由な「問い」を生む対話としてのアート

廃棄物アートの公募を運営するなかで課題と感じていることが、作品を介した作家と鑑賞者の間接的対話の促進である。

前回の記事に現代アートと思考のきっかけについて書いた。

現代社会に生きる私たちは、膨大な情報に接するのに忙しい。映画や本すら要約のみを読むことが普及している世の中で、私はじっくり問い、思考することの重要性について改めて考え、皆さんと共有したい。

「問う」とは、疑問を持つことであるが、疑問をもつためには個人の中で蓄積した思想や価値観や経験値などの情報が不可欠である。それらの情報と照らし合わせた上で発生する違和感や差異を問いとして認識するのではと思っている。

McTighe and Wiggins著の“Essential Questions”には「本質的な問い」の諸条件として下記の七つが挙げられている。

■オープンエンドな問いであること(唯一の正しい回答はない)
■思考を誘発し、知的に興奮させるもの・より高次の思考を誘発するもの (分析や、評価、推論など)
■重要で転移可能な概念を指し示すもの
■さらなる問いを生み、より深い探究の火をつけるもの
■答えそのものではなく、根拠や裏づけとなる情報を必要とするもの
■生涯にわたってなんども問い直しをされるもの
こたえのない学校/藤原さと


環境のこと、地球のこと、人類のことの答えなんて最初から無いのである。
答えがないのだから自由に考えればいい。
作家がつくった現代アートも、鑑賞者の解釈も答えが無い。作家の意図と外れた解釈も、「なんだか理解できないな」という率直な感想から対話が始まるのが現代アートである。

アート鑑賞、作家との対話は教養であるため、必要不可欠なものではなく、豊かさである。橋爪大三郎は著書の中で「教養は、自分の狭い範囲を越えていくためにある」と言った。

アート鑑賞で見つかるのは遠くの課題解決のアイデアなんかではなく、今まで知らなかった自分自身という発見だったりする。
現状に対する違和感、自分の価値観や考えとの差異に注目してみながら、是非鑑賞してみて頂きたい。

改めて、廃棄物アートの可能性を信じて仕方ない私である。


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