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和歌山紀北の葬送習俗(22)野辺送り②

▼前回は、おもに野辺送りにおける野道具の順序に関するケースを検討しました。今回も引き続き、野辺送りの内容をいくつか取り上げます。

▼なお、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。


1.野辺送りのルート


▼野辺送りには集落単位で通過すべきルートが定められています。まず、野辺送りの名称に関する事例をみましょう。

・墓行き道(奈良県五條市大津・中筋:昭和30年代)
・ゴコウ道(大阪府河内長野市滝畑:年代不詳)
・ソウレン道(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・三尺道(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:平成初年代)

▼「ゴコウ」「三尺」はそれぞれの集落独自の事情によるものでしょう。問題はルートの内容です。

・新しい道が出来て、そっちのほうが便利であっても旧来のソウレン道を使う(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・近くを他の在所のソウレン道が通っていても、これは使わない(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)

▼特に二番目の事例が重要で、葬列には死忌みがかかっているうえ、その忌は村落共同体内で自己完結的に処理しなければならないことから、野辺送りのルートは基本的に他の集落を避ける、ないしは侵害しないルートを辿るのが普通です。そして、他の集落の忌を避けることもまた村落共同体の義務であり、したがって自他の区別をはっきりつけておくことが重要になります。

▼次に、野辺送りのルートの大原則として重要機関を避けるというものがあります。ここでいう重要機関とは寺社です。

・葬列はなるべく神社を避けて通る(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・集落から墓地までの途中にある天神社の前を通るのを「もったいない」といい、葬列はそこを避けて遠回りした(大阪府河内長野市滝畑:年代不詳)
・葬列が観心寺の前を通る場合は寺の山門を閉じる(大阪府河内長野市:年代不詳)

▼以上にみる通り、葬列は巧妙に寺社を避けます。管理人の故郷では「なるべく」どころか、寺社はもちろん、地蔵の前を通らないルートが確立していました。

▼野辺送りのルートをめぐるその他の事例としては、以下のようなものがあります。

・墓穴掘りが葬列よりも先を行き、辻に紙を置いて上に石を置く(死者が墓への道に迷わないようにとの意味)(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
・道中の辻々にロウソクを立てたり(辻ロウソクという)、左縄を投げたりする(道しるべという)(死者が六道の辻を迷わないようにとの意味)(大阪府河内長野市島ノ谷・滝畑:年代不詳)
・葬列は途中で一服してはならない(奈良県五條市中筋:昭和30年代)

▼故人が道に迷わないようにという理由で辻々に石を置いたりロウソクを立てたりする行為は、かつては盛んに行われていたようです。以前述べたように、葬儀案内の紙切れが電柱に貼り出される前は、辻々に燭台を立てるなどして葬送が行われることが予告されていました。また、道が交差するところ=人の往来が増えるところ=辻は葬送を行う上で何らかの呪術的な規制を加える必要があったのかもしれません。

▼途中で一服してはならないという事例は、立ち止まることによって故人の霊魂が墓場に行かず喪家に戻ってしまう、などの呪術的な意味によるものと考えられます。

2.ゼンノツナ


ゼンノツナ(善の綱)とは、葬列で棺の前後に結びつけた綱状の白い布のことをいいます。葬列に加わる人びとがそれを曳いて歩くという習俗が広く全国に見られます。和歌山紀北地域から奈良県南部にもこの事例があります。

・孫のある家では、孫が晒一反の善の綱を曳いた。この晒は墓穴掘りの物となった(奈良県吉野郡野迫川村柞原:昭和40年代)
・棺の前に善の綱をかけ、内孫や外孫が曳いた(今は子どもが少ないため善の綱はない)(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:年代不詳)
・80歳以上で死亡し、かつ孫が多い場合は棺の前に白布をつけて曳く(奈良県五條市中筋:昭和30年代)
・棺に晒がつけられており、長生きした死者の棺につけた晒を腹帯にしたらよいといった(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:年代不詳)
・観音講の老婆らが善の綱を曳く。この習慣はあまり古くない(大阪府河内長野市寺元:年代不詳)
・故人に縁のある女性は白無垢を着て善の綱を曳いて門まで出る。土地によっては五重仲間の者がこれを行う(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・出棺時に、身内の女性が棺の先に付いている白い布(デイの綱)を引っ張る真似をする(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)

▼これらの事例をみると、故人が長生きして大往生した場合に孫世代が曳いたようです。

▼なぜ善の綱を曳くのかという理由には諸説があり、横井は結縁を意味する「縁の綱」から変化したとする解釈、もともと故人の衣類を運んでいたものがいつしか棺を白布で巻くようになって故人の西方極楽浄土への旅立ちと結びついたとする解釈、しめ縄のように祖霊化を促進させる意味に仏教的な意味が加わったとする解釈、「善」ではなく禅宗の「禅の綱」であるという解釈などを紹介しています(横井 2018)。

善の綱を曳いているところ(京都府旧天田郡。井之口章次 1977:p98)
善の綱を曳いているところ(三重県松阪市。堀ほか 1979:p35)

3.ツチノコ


▼葬列において、木槌を曳きながら進むという奇妙な事例があります。これは、和歌山県北部及び奈良県南部に特有の事例ではありません。柳田は、全国の葬送習俗事例を収集する中で、青森県下北郡、神奈川県旧津久井郡、京都府旧南桑田郡、奈良県奈良市に同様の習俗を見出しています(柳田 1937)。

▼まず、この習俗の名称に関する事例によると、曳く木槌をそのまま反映したツチノコ、ツチンコと称されていたようです。

・槌のことを「ツチノコ」という(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:平成初年代)
・槌のことを「ツチンコ」という(奈良県五條市大津:昭和30年代)

▼次に、ツチノコは特別な事情がある場合にのみ曳かれたようです。事例をみましょう。

・その年2人目の葬儀時(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・友引の日に止むを得ず葬送を行う時(奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代)
・卯の日と友引の日に葬式をする場合(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・妊婦及び胎児が死亡した場合(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:昭和50年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)

▼このように、一年のうちに2人以上の死者を出した場合(これは家ではなく村落単位であると考えられる)や卯の日(卯の日には凶事が続くという観念)、友引(ある人の死亡につられて別の村人が死ぬという観念)、妊婦+胎児=2人、など、複数名の死者が出たとき、または出る可能性があるときにツチノコが曳かれていたようです。

▼次に、ツチノコの曳き方に関する事例をみましょう。

・槌を転がしていく(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・槌を引っ張っていく(奈良県吉野郡旧賀名生村、奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・槌を縄でくくって棺に付けて曳く(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:平成初年代)
・槌に藁縄を付けて親戚の老人が曳く(和歌山県旧那賀郡粉河町猪垣:平成初年代)
・槌を曳いていってサンマイに埋葬する(奈良県五條市下島野:昭和30年代)
・槌を子どもに見立てて棺の尻に付けて曳く例もある(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・棺の後ろに藁縄を結び付けた槌を曳いていき、サンマイに埋葬する(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・棺と一緒に埋葬する(奈良県吉野郡野迫川村北股:昭和40年代)

▼以上のように、棺にくくるなどして曳いていき、棺と一緒に埋葬するのが標準のようです。さて、この習俗の意味ですが、槌は人形と同じで人間を象徴していると考えられます。つまり、「2人死ぬ」「友引」のように、さらなる死者の発生が危惧される場合に、ツチノコ=人間を一緒に曳いて埋葬することによってさらなる死者の葬送をシミュレートし、これ以上死者が出ないように願う意味があると考えられます(野迫川村史編集委員会編 1974;粉河町史専門委員会編 1996)。

4.野辺送りに関するその他の事例


▼野辺送りに関するその他の事例をみておきます。

(1)鉦の使用:
・三番鉦が出発の合図
(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・一つ鉦を出棺の途中から叩き始め、墓地に着くまでずっと叩く(この間は念仏は唱えない)(和歌山県伊都郡かつらぎ町下天野:昭和55年)
・一つ鉦は葬送中に先導役が最初に1回叩くと次の人が1~2分間空けて叩く。これをずっと繰り返す(和歌山県伊都郡旧天野村:昭和20年代)
・葬列が道の辻に差し掛かると鉦を一つ叩く(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・12月8日から年内は、不幸があっても鉦を一切鳴らさない(和歌山県伊都郡かつらぎ町丁ノ町:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡打田町打田:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・12月13日から翌年正月20日まで、不幸があっても鉦を一切鳴らさない(伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)

鉦を叩きながら歩く葬列(宮城県黒川郡。三浦ほか 1978:p111)

▼年末年始に鉦を鳴らさないとする事例は、特に六斎念仏講のある集落に限られる習俗です。年末年始に鉦を鳴らさないのは「神様に遠慮して鳴らさない」と解釈されており(かつらぎ町郷土誌編纂委員会編 1968)、葬儀、葬式や墓地に縁の深い六斎念仏でさえ、神が絡むハレの行事には遠慮がみられたようです。

(2)葬列における墓穴掘りの役割:
・墓穴掘りは葬列が近づくと六地蔵に燈明と線香を供える
(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・墓穴掘りは葬列が近づくと六地蔵にロウソクを供える(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・墓穴掘りは葬列が近づくと六地蔵にロウソクを供え、迎え鉦を叩く(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)

▼これらの事例から、墓穴掘りが葬列には加わらず、先回りして墓地に到着して葬列を待っていたことが分かります。

(3)その他:
・六斎念仏講がある所では六斎念仏衆が野辺送りに必ず随伴する
(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・差し合いになって野辺送りを済ませ、葬列などは作らなかった(和歌山県伊都郡九度山町:年代不詳)
・道に左縄を投げる(大阪府南河内郡旧川上村:昭和20年代)
・葬送の途中の道の広い所で右廻りに3回廻る(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
・棺の上に魔除けの刀を載せる(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・最近葬列を廃し、告別式の形式により、会葬者は式場で随意焼香し、埋葬地には親族、垣内、友人で送ることがようやく普及しつつある(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)

▼これらの事例のうち、左縄を投げるのは、日常的に用いられる縄が右縄であるため、左縄を使う=非日常的な行為であって絶縁儀礼としての意味があると考えられます。また、葬送途中で右廻りに3回廻るのは、墓地到着後に3回廻る行為と同じで、ぐるぐる廻ることによって喪家から墓場までの葬送ルートがわからないようにし、故人の霊魂が自宅に戻れないようにする呪術的行為かつ絶縁儀礼の一種であると考えられます。

棺担ぎの周囲が黒ではなく灰色の服を着用している。(三浦ほか 1978:p249)

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▼最近、「子どもの頃、葬列を見たらどのように行動するようにしつけられたか」について、複数名の同級生との間で話のネタになっています。耳を塞いで鉦の音を聞くなと言われた、葬列が来るので家の外に出るなと言われた、葬列と出くわしたら親指を隠せ、いや葬列を見送りに道端に行け、などなど、その行動規範はさまざまです。昭和後期のキッズにとって、葬列はごく当たり前の風景だったのです。

🔸🔸🔸(もう少しだけ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●堀哲ほか(1979)『近畿の葬送・墓制』明玄書房(引用p35).
●池田秀夫ほか(1979)『関東の葬送・墓制』明玄書房(引用p139).
●井之口章次(1977)『日本の葬式(筑摩叢書)』筑摩書房(引用p98).
●かつらぎ町郷土誌編纂委員会編(1968)『かつらぎ町誌』かつらぎ町.
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●九度山町史編纂委員会編(1965)『九度山町史』九度山町.
●三浦貞栄治ほか(1978)『東北の葬送・墓制』明玄書房(引用p111、p249).
●村山道宣(2011)「民俗調査報告:紀伊の六斎念仏」『人文・自然研究』(一橋大学)5、pp158-205.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●中野吉信編(1954)『川上村史』川上村史編纂委員会.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
●柳田国男(1937)『葬送習俗語彙』民間伝承の会.
●横井教章(2018)「葬送儀礼の出棺について」『佛教経済研究』(駒澤大学)47、pp113-137.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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