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和歌山紀北の葬送習俗(20)出棺②

▼前回は、棺を屋内からオモテに出すまでの行為とその呪術的意味を検討しました。

▼今回は、出棺に伴う付随的な行為を取り上げます。

▼登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。


1.出棺時の食事


▼出棺に際して遺族や会葬者が食事をする事例がみられます。このときの食事にはさまざまな名称があります。事例をみましょう。

・別れの膳(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・斎の膳(和歌山県紀北地方:昭和50年代)
・アラトキ(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
※「アラトキ」は会葬者に食べてもらう食事全般をさすこともある(奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代)
・出立ち(デダチ)(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・立場(奈良県吉野郡十津川村迫:昭和40年代)
・タチハの飯(和歌山県紀北地方:昭和50年代)
・タチバの飯(奈良県吉野郡十津川村上葛川:昭和40年代)
・門(カド)酒(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・門(カド)供養(奈良県宇陀郡旧莬田野町:昭和40年代)
・仕上げ(奈良県天理市:昭和40年代)

▼出棺前の食事の名称をみると、斎飯のほかにタチバ=出で立ちの場やカド=門出など、故人の旅立ちに際して宴会を開くという意味がありそうです。そして、なぜ食事をするのかについては、食事や酒を振る舞うことによって死忌みの分散を図っているという解釈(横井 2018)、遺族が故人との永別を惜しむ共食であるという解釈(橋本市史編さん委員会編 1975)などがあります。なお、この宴席に関する付随的な事例には、次のようなものがあります。

・使った箸はすぐに捨てる(奈良県吉野郡十津川村上葛川:昭和40年代)
・斎の膳は今までは手伝人の手料理だったが、近年は仕出し弁当で間に合わせるようになった(和歌山県紀北地方:昭和50年代)

2.出棺時に行われるその他の呪術的行為


▼さて、昭和の出棺時に行われていたその他の呪術的行為としては、以下の事例があります。

(1)茶碗等を割る行為:
・故人が生前使用していた茶碗を割る
(奈良県大和郡山市小泉町,奈良県吉野郡旧西吉野村,和歌山県橋本市,和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県海草郡旧野上町:年代は省略)
・故人が生前使用していた茶碗を玄関先で火を焚いて割る(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・故人が生前使用していた茶碗を割り、藁でくすぶらせる(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・壺を割る(奈良県大和郡山市小泉町:大正4年)

(2)物を屋根に放り上げる行為:
・故人が着ていた着物を屋根に放り投げる
(大阪府南河内郡旧川上村:昭和20年代)
・破れ扇子を屋根に放り投げる(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・出棺時に莚を倒して敷居に被せ、破れ扇子を屋根に放り投げる(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・米の包みを屋根に放り投げる(願ほどき・願さばきという)(和歌山県日高郡:昭和40年代)
・願かけをしたままの病人が死亡したときは「願果たします」と言いながら扇子をばらばらにして屋根に放り投げるか、空臼を3回搗けといった(願果たしという)(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)

(3)米や銭を撒く・ふりかける行為:
・銭を撒く
(和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡貴志川町丸栖:年代不詳)
・盆に銭を入れ、門(カド)に撒く(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・僧が銭を撒く(この金を拾って身に付けておくと「魔が差さない」「金持ちになる」といわれる)(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
・昔の年寄りは葬式時に沢山撒いてもらおうと、日頃から小銭を貯めていた(奈良県吉野郡野迫川村:年代不詳)
・米や銭を撒く(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・米や銭を棺に少しふりかける(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・白米を棺に少しふりかける(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・出棺時に屋根に上がり、金や米を撒く(願果たしという)(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)

(4)門火や藁火を焚く行為:
・門火を焚く(奈良県大和郡山市小泉町:大正年間から平成年間まで,和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:年代不詳,和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・門(カド)で藁一把を燃やす(奈良県五條市大津,奈良県吉野郡旧賀名生村,奈良県吉野郡旧西吉野村,和歌山県橋本市,和歌山県旧那賀郡粉河町,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山,和歌山県海草郡旧野上町:年代は省略)
・門(カド)で藁火を焚く(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・昔は門火をを松明につけて墓に持って行った(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)

出棺時に松明を焚いているところ。(堀ほか 1979:p32)

(5)箒で掃く行為:
・出棺後に式場を箒で掃く(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・出棺後に座敷を掃く(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡粉河町野上:平成初年代)
・出棺後に座敷を掃き出し念仏鉦を打つ(追い出し念仏という)(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)

(6)門口や庭で棺及び葬列を廻す行為:
・左廻りに3回廻る
(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・右廻りに3回半廻る(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代,和歌山県日高郡:昭和40年代)
・門(カド)で左廻りに3回廻る(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町下天野:昭和55年)
・門(カド)で右廻りに3回廻る(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・かつては門(カド)で廻ったが今はそのまま出る(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)

▼出棺直前・直後に行われる呪術的行為の多くは、やはり絶縁儀礼の意味があると考えられます。茶碗割りや門火は、故人の霊魂が二度と戻ってこないようにとする絶縁儀礼として解釈されるほか(近畿民俗学会 1980)、茶碗を割るのは霊魂が中空や窪みに留まりやすいのでそれを解放する意味があるという解釈もあります(横井 2018)。そして、庭や座敷を掃く行為も、死忌み観念と関係しながら、故人の霊魂が家に残らないようにという呪術的行為であると考えられます。

▼なお、さきに触れたように、和歌山県北部から奈良県南部では庭のことをカドと呼ぶことが多いです。家の門=カドではありません。門の中にある庭がカドです。管理人の親世代は「カド」という言葉を日常的に使います。たとえば、庭の草引きであれば「カドの草を引く」、庭の水やりであれば「カドに水をやってくれ」などと使います。

▼なお、上記以外の事例としては以下のようなものがあります。

・墓穴掘りは、準備が完了したら藁を焚いて煙で合図する(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:平成初年代,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・出棺を見計らって、若い衆が墓の六地蔵に灯明をあげる(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・香奠の受付2人が葬送の第一の辻まで出て藁一把を敷き、手を突いて黙礼する(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・喪家の辰巳、坤(ひつじさる)に紅白の小布に竹を垂らして地に刺し立てた(和歌山県海南市:年代不詳)
・出棺前に血族姻戚等が順次に焼香を行う(和歌山県旧那賀郡西貴志村:昭和10年代)
・出棺前に一同が水手向けを行う(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・表に出て庭で念仏を唱える(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・葬列出発時に六斎念仏衆が四遍とおろしを唱える(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・出棺後に戸障子を閉める(奈良県大和郡山市小泉町:大正4年)

▼これらの事例のうち、受付が第一の辻まで行って藁一把を敷く、喪家の辰巳、坤に竹を垂らして立てる、などの行為は、出棺後の野辺送りの順路を示すほかに、葬儀が行われている場所を示すための目印としての意味があると考えられます。ちなみに、現在のように本葬前日から当日朝にかけてあちらこちらの電柱に葬儀案内のビラが貼られるようになったのは昭和後期以降で、それまでは「辻」=交差点に手製の「忌」という紙が貼られていました。

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▼出棺時に、玄関前で茶碗が割られたときの、あの「カシャン」という気色の悪い音は忘れられません。たしか、木工用の金槌で叩いていたような覚えがあります。金槌で茶碗を割るという行為自体が常識としてはおかしなことで、やはり昭和の葬送習俗がいかに非日常的なイベントであったかを象徴しています。

🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●堀哲ほか(1979)『近畿の葬送・墓制』明玄書房(引用p32、p145).
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●松本保千代(1979)「和歌山県の葬送・墓制」堀哲他『近畿の葬送・墓制』明玄書房.
●村山道宣(2011)「民俗調査報告:紀伊の六斎念仏」『人文・自然研究』(一橋大学)5、pp158-205.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●中野吉信編(1954)『川上村史』川上村史編纂委員会.
●西貴志尋常高等小学校・西貴志青年学校編(1939)『西貴志村郷土誌:昭和14年3月調査』西貴志尋常高等小学校.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野田三郎(1974)『日本の民俗30和歌山』第一法規出版.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●田中麻里(2010)「奈良県の田の字型民家における葬送儀礼の空間利用―告別式、満中陰、一周忌を事例として―」『群馬大学教育学部紀要:芸術・技術・体育・生活科学編』45、pp145-152.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
●横井教章(2018)「葬送儀礼の出棺について」『佛教経済研究』(駒澤大学)47、pp113-137.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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