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和歌山紀北の葬送習俗(24)埋葬

▼まず、このページには死体に関する描写・写真があります。読み手に心的外傷を与える可能性があるので注意して下さい。学問的な文脈から述べるにすぎないものですが、一切の責任は問いかねます。

▼また、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。

▼このシリーズも、いよいよ終結が見えてきました。今回は、遺体の埋葬を取り上げます。埋葬時の流儀は、村落共同体の大人が輪番制によって墓穴掘りや手伝いを経験する中で、代々伝えられてきたものです。それは、年長者から「これは後世に引き継げよ」と言われたものではなく、村落に生きる人が通過儀礼として身につけたものであるといえます。

1.埋葬の方法


▼まずは埋葬時の所作に関する事例をみましょう。


(1)道具の使い方:
・鍬で埋める
(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・押し鍬はしてはならない(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代、奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・押し鍬をしてはならないのは獣が墓を掘り返すから(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・座棺の場合は盛土が少ないので、竹の簀子で棺を巻いて埋める(これをモガリという)(和歌山県旧那賀郡岩出町:年代不詳)

▼埋葬に使う道具、すなわち鍬やスコップの類の使い方としては、上の事例にみるように「押し鍬をはしてはならない」とする規制が多いです。獣が墓を掘り返すからという理由付けは不自然で、やはり何らかの呪術的行為であると考えられます。なお、この時点でいう埋葬とはあくまで儀式的なもので、棺は完全に埋葬されていません(後で墓穴掘りが完全に埋める)。


(2)土をかける順番等に関する事例:

・喪主が最初に土をかける(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・親族が少しずつ土をかける(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・血の一番濃い者が一番最初に土をかける(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・血の濃い身内の者から順に土をかける(和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・血の濃い者から順にスコップ一杯ずつ土をかける(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・最初に相続者が土をかける(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)

▼土をかける順序は、血の濃い者からかけるのが原則であったとみられますが、そもそも墓穴には血の濃い者しか行かないため、その中でいちばん血の濃い者からということになります。
▼これらの事例は、いずれも儀式的なものです。当然、少しずつ土をかけたところで棺は完全には埋葬されないわけで、血の濃い遺族が立ち去った後に墓穴掘り係が後始末=完全な埋葬を行います(後述)。


(3)その他:
・埋葬作業の前に僧が拝む
(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・埋葬している間読経が行われる(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・埋葬直前に読経の後、樒の葉で水向けをする(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・拝んでから魔除けの刀で切り真似をし、棺を墓穴に納める(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・六斎衆が念仏を唱える(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
・六斎衆が白舞(ハクマイ)と坂東(バンドウ)を唱える(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県伊都郡旧天野村:昭和20年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町下天野:昭和55年)
・埋葬前の墓穴には竹を2本渡し、ワラスベをかけておく(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・持っていった藁で火を焚く(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)

▼埋葬時に僧が読経するのは一般的にみられる例で、現在でも故人の頭髪や遺骨を墓石に納めるときに僧が読経する例をしばしば見かけます。

▼また、六斎念仏講が普及している集落では、講の念仏衆が墓穴のすぐそばで念仏を唱えるのが通例で、この場合は血の濃い者以外の者も墓穴周りにいたということになります。

墓穴を掘る段階で出土した過去の遺骨をまとめて埋葬している例。(堀ほか 1979:p150)


2.副葬品(棺と一緒に埋葬するもの)


▼次に、棺とともに墓穴に副葬するものに関する事例をみましょう。

・まず握り飯を入れ、次いで棺を入れる(和歌山県旧那賀郡粉河町鞆渕:平成初年代)
・枕飯が入ったホデも埋葬する(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:年代不詳)
・枕飯と箸が入ったホデも埋葬する(和歌山県旧那賀郡粉河町杉原:平成初年代)
・枕飯をツトに入れてサンマイにほってカラスに食べさせる(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・枕団子も一緒に埋葬する(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・弁当も埋葬する(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・棺を担ぐ者が履いていた草履を棺と一緒に埋葬する(和歌山県旧那賀郡粉河町下鞆渕和田:年代不詳)
・皆が履いてきた草鞋や草履、樒、天蓋の飾り、弁当等を放り込み、土を被せる(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)

▼枕飯や握り飯は、故人の「弁当」として副葬されることが多いようです。棺担ぎが履いてきた草鞋は、死忌みがかかっているので復路は履かず、墓穴に一緒に埋めてしまうか、墓地に捨てることが多いようです。

▼葬式組が作った、野辺送りに使った野道具の類も墓地に捨てられます。かつて、墓地には必ずごみ焼却スペースやごみ焼却炉があったものです。これは、ごみと化した供え物や供花を燃やすだけでなく、野辺送りで使った野道具を燃やすためでもあります。いまは、野焼きが法令違反となるため、墓場のごみは持ち帰るのがマナーとされています(忌がかかっているのに持って帰るのかい??)。

3.仕上げ作業と装飾、供え物


▼血の濃い者による儀式的な埋葬が済むと、あとは墓穴掘りや手伝人が完全に埋めて地ならしをしたり、土盛りを作ったりします。事例をみましょう。

・近親者が一廻り土を被せると後は人夫が始末をする(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・墓穴掘りだけが残って完全に埋葬する(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・墓穴掘りだけが残って土を盛り上げて土饅頭を作る(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・オンボウが中心になって埋葬するが、オンボウがいない地区では近所の者が手伝う(大阪府南河内郡旧川上村:昭和20年代)

▼このとき、単純に地ならしや土盛りを作るだけでなく、埋葬地の直上にさまざまな装飾を施します。これは、埋葬のしるしとして、また何らかの呪術的な行為として、そして獣除け(昔は野良犬がそこかしこにいた!)の意味があるようです。この装飾の方法には、さまざまな形があります。


(1)井垣(イガキ)・玉垣(タマガキ):

▼まずは井垣や玉垣から。イガキ(井垣)とは、竹や塔婆で長方形の囲いを作って埋葬地を囲んだものです。玉垣も同じような意味です。中田によると、村の古老や家柄のめでたい者は49本の板塔婆、普通の家の者は割竹を刺す傾向があるとされています(中田 1971)。

・イガキ(井垣)を作る(奈良県五條市中筋:昭和30年代,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・イガキ(井垣)で囲うようになったのは昭和10年以降(大阪府河内長野市寺元:昭和10年代)
・弘法大師から特別な祈祷を受けた7箇所は一切の悪獣が避けるのでイガキ(井垣)は不要(奈良県五條市牧野:昭和30年代)
・青竹で囲う(玉垣という)(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・割竹で玉垣を作る(和歌山県旧那賀郡粉河町嶋:平成初年代,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・今は玉垣を埋めた上に被せておく(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・必ず芝を植えてウグイ竹を刺し、それを玉垣で囲う(狐に掘り返されないようにするため)(和歌山県旧那賀郡神戸村:年代不詳)
・屋形を作る(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・破風型の木でできた屋根型の一方に鳥居がついたものを上に載せる(ヤネ(屋根)という)(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)

割竹で組んだ井垣の例。(近畿民俗学会 1980:p7)
これも割竹で組んだ井垣(堀ほか 1979:p254)


(2)モンドリ(モガリ):

▼次に、「モンドリ」の事例をみましょう。モンドリ(モガリともいう)とは、棒や割竹で埋葬場所の直上を囲み、さらにこれらの棒や割竹の上端を束ねてくくるというものです。なお、モンドリとは漁具の「モドリ」から転化したと解釈されることが多いようです(中田 1971)。

・モンドリを作る(奈良県五條市中筋:昭和30年代,大阪府河内長野市寺元:昭和10年代よりも前,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・竹を組む(これをモンドリという)(奈良県吉野郡野迫川村池津川:昭和40年代)
・モンドリ風の間垣で覆う(魔除けのため)(奈良県五條市大津:昭和30年代)
・大きな石の周囲を竹で囲い、その竹の先端を藁縄でくくる(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:年代不詳)
・ウグイ竹を立ててモガリのようにする(和歌山県旧那賀郡粉河町町方:昭和30年代)
・寝棺になって以降は竹垣にして上をくくらなくなった(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:年代不詳)
・モンドリは一周忌(ムカワリ)に撤去する(奈良県吉野郡野迫川村池津川:昭和40年代)
・弘法大師から特別な祈祷を受けた7箇所は一切の悪獣が避けるのでモンドリは不要(奈良県五條市牧野:昭和30年代)

▼モンドリは、和歌山県北部から奈良県南部にかけては、特に故人が大人ではなく子どもの場合に作る事例が数多くみられます。子どもや女性の死に関する葬送習俗はいずれ別ページにて取り上げる予定です。

モンドリの例。(左:井之口 1977:p42,右:後藤ほか 1979:p186)


(3)刃物を置く:

▼次に、刃物を置く事例をみましょう。これは明らかに魔除けです。

・中央に刃物を吊るす(奈良県吉野郡野迫川村池津川:昭和40年代)
・鎌を立てる(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県那賀郡粉河町鞆渕:平成初年代)
・割竹数十本を突き立て、中央に鎌1挺を魔除けの呪いとして立てる地区もある(和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・鎌と斧を墓穴掘りに渡し「お願いします」と頼んで一行は帰る(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:平成初年代)

モンドリ状のものから鎌を吊り下げた例。(堀ほか 1979:p120)
鎌を突き立てた例(三浦ほか 1978:p173)


(4)石を載せる:

▼次に、埋め墓の直上に石を載せる事例をみましょう。これは、埋葬のしるしとしての意味と、故人が蘇らないようにという魔除けとしての意味があると考えられます。

・石を置く(奈良県五條市中筋:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡粉河町・粉河町松井:昭和30年代)
・石を並べる(この石を積み石という)(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:平成初年代)
・小石を置く(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・小石を置き、周囲に割竹で作った囲いで囲う(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・大きな丸い石を置く(和歌山県旧那賀郡粉河町杉原:平成初年代)
・扁平な石を置く(和歌山県旧那賀郡粉河町鞆渕:平成初年代)
・紀ノ川北岸部では石を置く習慣はなかったが、戦後に置くようになった(和歌山県旧那賀郡粉河町:戦後)

石を置いた例。(三浦ほか 1978:p290)


(5)その他の事例:

・故人が使っていた竹杖を立てて目印にする(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・ホデに入れた枕飯を玉垣に結びつけておく。これを「死者の弁当飯」という(和歌山県旧那賀郡神戸村:年代不詳)
・塔婆を立てる(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・六角塔婆を立てる(和歌山県旧那賀郡粉河町鞆渕:平成初年代)
・花や造花を供える(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・花輪を立てる(和歌山県旧那賀郡粉河町野上:平成初年代)
・シキビで覆い塔婆を1本立てて位牌を置く(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)

弓矢型の魔除けを置いた例。矢には向けるべき方角(ロケーションによって異なる)がある。(三浦ほか 1978:p173)


4.その他


▼埋葬をめぐるその他の事例をあげておきます。

・祭の当日に死亡した者はコバカ(小墓)に埋葬する(奈良県五條市黒駒:昭和30年代)
・八朔から隅田八幡宮の秋祭り(旧8月16日)までは普段のサンマイに埋葬せず、八幡宮から遠く離れた大和国境の山の谷に埋葬した。今ではその風習は残っていない(和歌山県橋本市隅田町下兵庫・垂井・中島・中下・芋生・山内・霜草:年代不詳)
・村はモノモライ(物貰い=浮浪者のこと)が死亡した場合に埋葬する責任があり、村境のサンマイに運んで埋葬した(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・単墓制の場合、五回忌を過ぎたものを掘り返して一段高い所に移す(伊都郡かつらぎ町天野:昭和40年代)

▼「祭」という、死忌み不可侵の行事に亡くなった人が、やや特殊な埋葬のされ方をしていたことを示す例がみえます。これは、おそらく他地域も同様でしょう。

▼また、「単墓制では五回忌を過ぎると掘り返して一段高い所に移す」については、似たような事例が全国にあり、現代では改葬にあたるものです。墓を掘り返す直接的な理由は、歴史を重ねた墓は埋葬を繰り返すと埋葬場所がなくなるため、古い遺体(遺骨)を掘り返して整理する必要があったからです。しかし、墓の掘り返しは、沖縄県によくみられる洗骨習俗のように、遺体や遺骨を大事に扱い、故人とともに生きるという愛慕感情に伴う行為であるかもしれません。

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▼埋葬が終わると、遺体との直接的な対峙が終了し、遺族は「追善」という次なるプロセスへと前進し、また非日常的なイベントから徐々に日常生活を取り戻していくことになります。

🔸🔸🔸(もうしばらく)次回につづく🔸🔸🔸


文献

●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●後藤義隆ほか(1979)『南中部の葬送・墓制』明玄書房(引用p186).
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●堀哲ほか(1979)『近畿の葬送・墓制』明玄書房(引用p120、p150、p254).
●井之口章次(1977)『日本の葬式(筑摩叢書)』筑摩書房(引用p42).
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28(引用p7).
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●松本保千代(1979)「和歌山県の葬送・墓制」堀哲他『近畿の葬送・墓制』明玄書房.
●三浦貞栄治ほか(1978)『東北の葬送・墓制』明玄書房(引用p171、p173、p290).
●村山道宣(2011)「民俗調査報告 紀伊の六斎念仏」『人文・自然研究』(一橋大学)5、pp158-205.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●中野吉信編(1954)『川上村史』川上村史編纂委員会.
●中田太造(1971)「『殯』・(もがり)における民俗学的考察」『近畿民俗』54、pp2206-2218.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。

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