
和歌山紀北の葬送習俗(30)子どもと葬送習俗
▼まず、このページには死体に関する描写・写真があります。読み手に心的外傷を与える可能性があるので注意して下さい。学問的な文脈から述べるにすぎないものですが、一切の責任は問いかねます。
▼子どもの死は「異常死」とされており、成人の死とは別の葬られ方をしていたことがわかっています。
▼医療技術が貧弱だった昭和中期頃までは、出産時の死亡が数多く見られたはずです。それよりも前は言わずもがなで、そのため、子どもが死亡した場合の習俗が、大人のそれとは別に存在したのもうなずけるところです。
▼そこで、今回は子どもと葬送習俗を取り上げます。なお、ここでいう子どもとは、現に生きていた子どもが夭折した場合に加えて、胎児や新生児を含みます。
▼また、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。
1.胎児が死亡した場合の習俗
▼流産や死産などによって胎児が死亡した場合の習俗については、以下の事例があります。
・嬰児が死亡した時は「一つ積んでやると一日休める、二つ積んでやると二日休める」といってお大師さんに参って石積みをした(奈良県吉野郡野迫川村:年代不詳)
・臨月の妊婦が死ぬとフタツミニスルモノといって子どもを出して棺を2つにした(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
▼一つ目の事例はまさに「賽の河原」における石積みの習俗、二つ目の事例はかなり衝撃的な行為で、胎児が一個の人間として棺が用意されていたことは注目すべき習俗です。「フタツミニスルモノ」とは「二つ目」という意味でしょう。
2.乳幼児が死亡した場合の習俗
▼次に、乳幼児が死亡した場合の習俗に関する事例をみましょう。
・幼児が死亡した場合、夕方に遺体を箱に入れて墓に持って行き埋葬する。葬式は出さない(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・幼児が死亡した場合、日暮れに遺体をワラヅトに入れ、萱笠を載せて野辺送りをし、坊さんも頼まず身内の者の念仏だけで墓地の傍らに埋葬した(和歌山県:昭和50年代)
・幼児が死亡した場合、サンマイの端のほうに埋葬する地区もある(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・幼児が死亡した場合、火葬を行う地区でも土葬にする所がある(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代,和歌山県:昭和50年代,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・生後間もない子どもが死亡した場合、「マタハエルヨウニ」といって籠に入れて埋める(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・子墓を作らない地区もある(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・親はサンマイへ行かない(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
▼「夕方に埋葬する」「三昧の端に埋葬する」「墓を作らない」などのように、成人とは異なる埋葬方法が採用されているほか、そもそも葬儀が行われず、公にして儀式や儀礼を実践するのではなく、身内だけでひっそりと葬られたようです。
▼「火葬ではなく土葬にする」については、さらに以下の事例があります。
・妊産婦が死んだ場合は「血の池にはまる」といって火葬ではなく土葬にする(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
▼この事例から、火葬をする地域でもあえて土葬にするのは、死者の霊魂が血の池地獄に堕ちるという仏教的な俗信に基づくものであるらしいことが分かります。
3.乳幼児の埋め墓におけるモンドリ
▼「モンドリ」とは何かについては、『和歌山紀北の葬送習俗(24)埋葬』を参照して下さい。
▼乳幼児の死亡に際して、埋め墓にモンドリを設ける事例があります。但し、モンドリという墓地装飾自体に、子どもの死と結びつくような意味を特に見出すことはできません。
・故人が子どもの場合、竹を三角錐状に立て、上部を縄で巻く(和歌山県旧那賀郡粉河町嶋:平成初年代)
・故人が子どもの場合、四本竹の柄を2尺ほどに切って円錐型にして縄でくくる(動物に掘り返されないようにするため)(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・故人が幼児の場合もモンドリを作った(和歌山県:昭和50年代)
4.流れ灌頂
▼流れ灌頂は、特に出産時に産婦と子どもの両方が死亡した場合に行われてきた仏教習俗で、医療技術がプアであった昭和中期頃まではかなりの頻度で行われる、ごく一般的な習俗であったと考えられます。
▼流れ灌頂の作法は、地域ごとに異なり、塔婆を流すことが一応のデフォルトで、赤い布を川に流す、布に水をかけるなどの行為を実践すると母子が成仏するということになっています。
・三十五日に村の者7人に頼んで一週間、高野山の一の橋に参って塔婆を流してもらう(奈良県吉野郡野迫川村柞原:昭和40年代)
・高野山の本覚院でしてもらう(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・交通事故で死んだ場合にも、高野山の一の橋で塔婆を流してもらう(奈良県吉野郡野迫川村柞原:昭和40年代)
・高野山に詣って坊さんを頼み、無明の橋で法事をしてもらって流れ灌頂をする(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・高野山に詣れないときは、三十三ヒロの左縄をない、これに樒の葉を挿して川へ流した(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・葬儀後なるべく早く近くの川であらかじめ準備しておいた49の左よりの細縄を僧侶がところどころ結び、川端の生木に一方の端を結び付けて川に流す。そして塔婆7本を並べて供え物をし、僧侶の読経の最中に近親者が川に入り、縄の結び目を左手で解いて流す。これで産死者は極楽に行ける(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
🔷 🔷 🔷 🔷 🔷
▼胎児や新生児、乳幼児が死亡した場合、その葬送習俗としては絶縁儀礼をしないことが大きな特徴です。
▼乳幼児の死亡に際して、儀式や儀礼を大幅に省略するのは、葬送儀礼をしてしまうと生まれ変わる際の障害となるからと解釈されています(松本 1979)。すなわち、子どもの霊魂は永久にあの世に行くのではなく、新たな子ども(の出産)として生まれ変わるため、子どもの霊魂を早々に絶縁して成仏させたりすると、その好循環が損なわれるという観念が存在したようです。
🔸🔸🔸このシリーズは間もなく終了です🔸🔸🔸
文献
●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●松本保千代(1979)「和歌山県の葬送・墓制」堀哲他『近畿の葬送・墓制』明玄書房.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●和歌森太郎編(1965)『志摩の民俗』吉川弘文館(引用p209).
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。