和歌山紀北の葬送習俗(15)死装束
▼このページをご覧のマニアックな方、経帷子(きょうかたびら)などという単語を子どもの頃にご存じでしたか❓ 管理人は、そんな単語を大人になるまで一度も聞いたことがありませんでした。ということで、今回は死装束を取り上げます。
▼なお、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。
1.死装束のコーディネート全般
▼一般に、というか管理人も大人になってから知ったことですが、遺体に施される死装束は近世の旅人姿を模したものです。いま現在、昔の旅装束を見ることができるのは、富士講や大峯講など山岳信仰系の修行者かお遍路さんくらいでしょう。修行者やお遍路さんイコール遺体というわけではないでしょうが、なぜ旅人が白装束でなければならないのかという点を突き詰めていけば、ひょっとすると何らかの仏教習俗との関係があるかもしれません(ここでは突き詰めていませんが・・・)。
▼早速事例をみましょう。
・旅装束を施す(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・白い着物を着せる(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・白い経帷子を着せる(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・経帷子と白い晒で作った服を着せた(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・今は白装束ではなく晴れ着のこともある(和歌山県橋本市:年代不詳)
・故人が生前持っていた一番良い着物、綺麗な着物を着せる(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
・故人が生前持っていた一番良い着物を着せ、その下に仮縫いした白晒布一反を着せる(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・故人が生前持っていた一番良い着物を着せ、その上に経帷子を重ねる(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・白い手甲と脚袢を着ける(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・手甲と脚絆を着ける(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・三節の破竹で作った杖を持たせる(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・頭に笠を被せる(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・高野で買って帰った地蔵笠を持たせる(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)※「高野」とは高野山の意味。
・頭布を被せる(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・首に頭陀袋(ずだぶくろ)を吊るす(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・手に数珠をかける(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
▼これらの事例から、死装束のコーディネートとしては、白装束ないし経帷子をメインに、手足には手甲(てっこう)と脚絆(きゃはん)を着け、頭には笠、そして持ち物として頭陀袋を下げるのが一般的のようです。
▼また、身に着けるべき経帷子は、一枚の場合と経帷子以外の白い着物(故人が生前着用していたもの)を着重ねする場合があるようです。
2.死装束の着せ方
▼早速、事例をみましょう。
・左前に着せる(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代,奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・反対に着せる(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・着物を逆さまにして布団の上から着せる(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・着物の衿から帯をして首に巻かせる(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・足袋と草鞋は左右を逆に履かせる(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・白足袋と草鞋をうしろ前に履かせる(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
▼このように、「左前」「反対に」「逆さまに」「布団の上から」「左右逆」「うしろ前」など、作為的に通常とは逆の手順を踏むのは典型的な絶縁儀礼で、逆にすることによって故人の霊魂が現世に戻ってこれないようにとの意味があると考えられます。
3.死装束の材料と材質
▼事例をみましょう。
・白い晒(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・一反の晒から単衣を作る(奈良県五條市下島野:昭和30年代)
・一反の晒から着物・脚絆・手甲等を作る(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・一反の晒木綿から白無垢を作る(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・一反の晒木綿から経帷子、脚絆、頭布、頭陀袋を作る(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・晒で作った簡単な白い着物(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
▼このように、材質はもっぱら木綿の晒(さらし)で、しかも一反=一枚の布から作ることが原則とされていたようです。
4.誰が死に装束を縫うのか
▼以前『和歌山紀北の葬送習俗(10)葬式組』で触れた通り、ひと昔前までの葬儀、葬式では明確な性別役割分業があり、死装束の準備はもっぱら女性の役割とされていました。事例をみましょう。
・血の濃い者(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・親戚の女性(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・近親者(奈良県五條市大津:昭和30年代,奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代,和歌山県橋本市:年代不詳)
・年寄りの女性3人(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・村中の女性の年寄り衆(奈良県吉野郡野迫川村野川:昭和40年代)
・多人数で縫う(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
▼このページのタイトル画像は、死装束を多人数で縫っている光景を写したものです(三浦他 1978:p106)。複数名で縫うのは、単に死装束を早く準備するという意味と、単独で縫うと霊魂に引っ張られる、さらわれるなどの呪術的な意味があると考えられます。
5.死装束の縫い方・作り方
▼死装束の縫い方に関する事例にはさまざまなバリエーションがあり、非常に興味深いものです。
(1)布の扱い:
・引き裂いて作る(奈良県吉野郡野迫川村野川・弓手原:昭和40年代,奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・一反の晒木綿は使い切って余らせない(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・脚絆や手覆いは両端を引き裂いて紐にする(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・片袖で頭布、もう片袖で頭陀袋を作る(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
(2)仕立て方:
・左前に仕立てる(和歌山県橋本市:年代不詳,和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:年代不詳,和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
・背筋の所を縫う(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
・経帷子は袖なしで衿(えり)をつけない(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・身丈と袖丈を同じにする(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代,奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代)
(3)糸の扱い:
・糸尻をくくらない(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代、奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代,和歌山県橋本市:年代不詳,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・糸止めをしない(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代,和歌山県橋本市:年代不詳,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・糸の結び目を作らない(奈良県吉野郡野迫川村野川:昭和40年代)
・糸尻をとめる(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・一本糸で縫う(奈良県五條市大津:昭和30年代)
(4)帯の扱い:
・衿(えり)の部分を使って帯にする(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:年代不詳,和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・帯を猿結びにする(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・帯を一筋(一回り)で猿結びにする(奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代)
(5)裁縫道具の扱い:
・刃物を使わない(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・鋏を使わない(奈良県五條市下島野,奈良県吉野村旧大塔村,奈良県吉野郡旧大塔村篠原,奈良県吉野郡野迫川村野川・弓手原,奈良県吉野郡旧賀名生村,奈良県吉野郡旧西吉野村,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山,和歌山県海草郡旧野上町:年代は省略)
・針を使わない(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・一本針で縫う(奈良県五條市大津:昭和30年代)
・物差しを使わない(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
▼糸尻をいい加減な状態にしておいたり、鋏を使わずに引き裂いたりという行為は、やはり絶縁儀礼であると考えられます。一方、死装束では衿(えり)のあり方にこだわりがみられます。この意味が管理人にはイマイチ理解できず、「衣服の開口部(袖口、襟口、裾口など)があの世と繋がっているという観念がある」みたいなことを書いた論文を読んだことがあるのですが、文献名を忘れました・・・ ひょっとすると、死装束の開口部をユルユルにして故人の霊魂を放出させる意図があるのかもしれません。
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▼友人から聞いたところによると、最近の死装束は紙でできていて、なおかつ、色が白の一択であるとは限らないとのことです。死装束にも多様化の時代が到来しているようです。
🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸
文献
●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅱ)民家・民具」『近畿民俗』84・85、pp3438-3444.
●三浦貞栄治ほか(1978)『東北の葬送・墓制』明玄書房(引用p106).
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●世界文化社(1973)『冠婚葬祭:グラフィック版』世界文化社(引用p90).
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。