和歌山紀北の葬送習俗(29)女性と葬送習俗
▼これまで、『和歌山紀北の葬送習俗』シリーズでご紹介に及んだ一連の葬送習俗に関する地域事例のうち、あまり積極的に触れてこなかった点があります。それは、女性、子どもと葬送習俗との関係です。ここでは、女性と葬送習俗に関する事例を取り上げます。
▼なお、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。
1.葬送習俗における女性の扱い
▼昔の葬儀、葬式そして葬送は、基本的には他所者の力を借りず、近親者と集落の人間が自己完結的に行う行為でした。しかも、葬儀の準備や墓穴掘り、棺担ぎなどの労力を要するものは男性の仕事、台所廻りや賄い、死装束は女性の仕事というふうに、葬儀、葬式は明確な性別役割分業によって成り立っていました。
▼さらに、葬儀、葬式における役割を細かくみると、昔の葬儀、葬式は性別役割分業のほかに大家族制や直系家族制、男尊女卑を大前提としていたといえるでしょう。
▼たとえば、葬送における女性の扱いに関しては次のような事例があります。
・葬列に加わる会葬者のうち女性は遅れていく(埋葬が終わった頃に到着する)(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・埋葬が済む頃に家族、親族、近所、垣内(カイト)の女性らが打ち連れて墓参りをする(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・主人が死に、その未亡人に再婚意志がある場合は葬列に参加しない(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・血の濃い女性はサンマイには行かない(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
▼これらの事例は、「女性はしてはならない」という禁止のニュアンスを含むものが多く、葬儀、葬式、葬送において女性に主体性がなかったことを示しています。また、以下の事例があります。
・妊婦は近親といえども遺体の枕元にははべらない(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・家族に妊婦がいる場合は墓穴掘りを次の順番の者に代わってもらう(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・妊婦は葬列に参加しない(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
▼これらの事例は、単に「妊娠した女性が大事にされていた」という表面的な意味ではなく、女性よりも生まれてくるであろう子どもに死忌みがかかる、ないしは胎児が死ぬことを恐れたという文脈から読み取るのがより的確であると考えられます。
▼かつて、妊娠した女性は、穢れ観念の上では忌み嫌われながら、一方では子どもを出産する存在として大切にされるというアンビバレントな価値観に挟まれていました。こうした価値観は、現代ではありえません。現代では、穢れ観念はもちろん、女性が出産という理由だけで重宝されるという価値観もNGです。
2.女性が死亡したときの扱い
▼さて、女性が死亡した場合の事例としては、以下のようなものがあります。
・嫁入りの時に持参した唐櫃の一つに遺体を入れ、縄で縛って差し合いで担って野辺送りをした(和歌山県伊都郡:年代不詳)
・女性既婚者が死亡した場合、婚礼の際持参した唐櫃の一個に遺体を納めて縄で縛り、差し合いで担ぐ(和歌山県伊都郡旧見好村:安政年間)
・妻が死んだ場合、夫は再婚意志の有無にかかわらず葬列に参加しない(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・妻が死んだ場合、後妻を貰わない者は墓には行かなかった(今は男女とも墓参りをする)(和歌山県旧伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
▼女性が死亡した場合に、その夫が葬列に参加しなかったり、棺ではなく嫁入り道具に遺体を入れたりするなど、通常=男性の死亡に伴う葬送の手続きとは異なる手順が踏まれていたようです。
▼また、子どもを産まずに死亡した女性にまつわる事例があります。
・女性の場合、臍の緒がないときは干したズイキを棺に入れる(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・子どもを産まずに死んだ女性の場合、臍の緒の代わりにズイキを棺に入れることもある(和歌山県旧那賀郡粉河町杉原:平成初年代)
▼ズイキは性器具であり、わざわざそれを遺体に副葬するところに、女性の死亡に伴う葬送の扱いが、呪術的な意味ではなく社会的な意味を持っていたことが垣間見えます。
▼つまり、女性の生死には、必ずといってよいほど出産や子どもがセットとなっており、女性が個としてみられていなかったことはほぼ確実です。そのため、何らかの理由で子どもを出産できなかった女性は、村落共同体ではかなり肩身の狭い思いをしながら生きていたと考えられます。
3.ヤマアレル
▼こうした、社会的な文脈からみた女性と葬送習俗との関係から離れて、和歌山県北部のごく限られた地域には「ヤマアレル(山荒れる)」という習俗があります。どのような習俗であったのか、事例をみましょう。
・その年のはじめに女性が死亡することを「山荒れる」「初山荒れる」という(和歌山県旧那賀郡粉河町志野・西川原・嶋:平成初年代)
・1月中に女性が死ぬと「山荒れる」という(和歌山県旧那賀郡粉河町中津川:平成初年代)
・「山荒れる」時は、墓穴を掘る人が竹に葛のつるを張って弓を作り、女竹の先を尖らせた矢を墓の入口に村の方向に向けて立てる。これは盆の墓掃除の時に焼却する(和歌山県旧那賀郡粉河町志野:平成初年代)
▼これらの事例は、いずれも出所は『粉河(こかわ)町史』(現和歌山県紀の川市)で、それ以外の市町村史にはいっさい言及がありません。また、柳田国男や井之口章次、堀哲といった民俗学の枢要どころの書籍をみても、この習俗への言及はありません。
▼和歌山県旧那賀郡粉河町(現和歌山県紀の川市)の位置関係をご覧下さい。カラー部分が旧粉河町域、また東西に貫流する河川が紀ノ川です。
▼で、これら「山荒れる」の事例における「山」とは和泉山脈のことであると考えられます。そして、この習俗は紀ノ川左岸(南岸)ではみられない、かなり特殊な習俗で、また他地域で同類の事例がありません。
▼年の初めに女性が死亡すると、なぜ「山が荒れる」と表現していたのかは全くわかりません。また、墓の入口から集落に向けて矢を立てることについては、墓場の弓矢は明らかに魔除けであるとして、それをなぜ集落の方角に向けなければならないのか、これも全くわかりません(墓場の弓矢は通常は北に向けられる)・・・ とにかく、女性の死が何らかの理由によって特別視されていたことは確かです。
4.ホトケオロシ
▼「ホトケオロシ(仏下ろし)」とは、青森県の恐山におけるイタコのような降霊師のことで、全国に広くみられる習俗です。事例をみましょう。
・葬式後から忌明けまでの間に口寄せの巫女を招いて故人の魂を呼び、語らせることが遺族の義務とされ一般的に行われていた(和歌山県橋本市:明治末期頃まで)
・巫女寄せが盛んに行われ、白衣をまとった老巫女が箱の上に肘をついて悲しげに語る物語に集まった老婆らが涙をためて聞き入っていた(和歌山県橋本市:明治30年代)
・戦死者の遺族らがこれをよく利用した(奈良県五條市大津:昭和30年代)
▼「巫女」とあるように、仏下ろしの主体はほぼ女性です。これは、女性に何らかの呪術的なパワーがあると考えられていたからでしょう。それが嘘であることは百も承知の上で、遺族感情を踏まえるならば、このような習俗や職業はあってもよいと考えるべきでしょう。
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▼管理人は社会運動家ではありませんし、男女同権を啓蒙するためにこれを書いているわけでもありませんが、古い村落共同体における女性の扱いは概してひどいものです。
▼村落共同体における女性の役割は、子ども(特に男性)を出産して家制度を存続させることであり、それを満たす限りにおいて女性の人権が認められていたといえるでしょう。管理人の母親は、「妊娠中に義父から『風呂に入るな』と何度か言われたことがあり、橋本駅前の銭湯に行ったことがある」と回顧していました。
🔸🔸🔸まもなく終了しますが次回につづく🔸🔸🔸
文献
●青森県立郷土館(1976)『青森県民俗資料図録.第3集(青森県の民間信仰)』青森県立郷土館(引用p86).
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●伊都郡役所編(1971)『和歌山県伊都郡誌』名著出版.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野田三郎(1974)『日本の民俗30和歌山』第一法規出版.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。