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和歌山紀北の葬送習俗(17)墓穴掘り
▼まず、このページには死体に関する描写があります。読み手に心的外傷を与える可能性があるので注意して下さい。学問的な文脈から述べるにすぎないものですが、一切の責任は問いかねます。
▼登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。
▼墓穴を掘るのは、基本的にその集落の墓のあり方が土葬であることが前提です。火葬の場合は、単に遺骨を墓石の間に納めておけばよく、墓穴を掘る必要はありません。昭和後期における管理人の故郷には土葬と火葬の両方があって、土葬、火葬それぞれの姿をよく覚えています。
1.墓穴掘りの名称
▼墓穴掘りにはいくつかの名称があります。早速事例をみましょう。
・穴掘り(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・穴掘り人夫(但しこの用語が日常的に使われていたかどうかは怪しい)(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・オンボ(奈良県五條市近内,奈良県吉野郡旧賀名生村,奈良県吉野郡旧西吉野村,大阪府河内長野市,和歌山県伊都郡かつらぎ町四郷・平,和歌山県旧那賀郡粉河町:年代は省略)
・オンボウ(大阪府南河内郡旧川上村:昭和20年代)
・マワリオンボ(奈良県五條市近内:昭和30年代,奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代,大阪府河内長野市:年代不詳)
・墓掘り(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
・山行き(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・山行きさん(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・野行き(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
▼さきに『和歌山紀北の葬送習俗(11)葬具と棺の調達』で「オンボ」と呼ばれる古典的な葬儀屋の存在に言及しましたが、葬儀屋としてのオンボと墓穴掘りを指すオンボは一致する場合としない場合があります。それは、次にみるように墓穴掘りを誰がやるのかという点から明らかになります。
2.誰が墓穴を掘るのか
▼墓穴掘りは力仕事なので、通常は男性の仕事とされていました。事例をみましょう。
(1)誰が墓穴を掘るのか:
・昔は墓穴掘りと墓番専門の者がいた(大阪府河内長野市:年代不詳)
・喪家の両隣のいずれか1名と直近に不幸があった家1名の計2名(奈良県五條市近内:昭和30年代)
・青年団で引き受ける地区もある(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・隣組の人たち(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・組内(五人組)から出す(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・垣内(カイト)の者(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:年代不詳)
・各大字の者2人(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・六斎衆と年行司(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
・若い衆(奈良県吉野郡野迫川村弓手原:昭和40年代)
・六斎講員の最年少者(和歌山県伊都郡かつらぎ町四郷:昭和50年代)
・女所帯の家も行った(奈良県吉野郡野迫川村池津川:昭和40年代)
・誰もしてくれない時は家の者が2人で掘る(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
(2)墓穴掘りをどうやって選ぶか:
・持ち廻り(奈良県五條市西阿田:昭和30年代,和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳,和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:年代不詳)
・各大字内で順番に担当する(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・2人ずつの持ち廻り(大阪府河内長野市:年代不詳)
・3人ずつの持ち廻り(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・4~5人ずつの持ち廻り(奈良県吉野郡野迫川村今井・池津川:昭和40年代)
・2~5人が順番に勤める地区が多い(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・順番を記した帳面がある(順番を間違えて不平等にならないようにするため)(大阪府河内長野市寺元:年代不詳)
・家や親族に死者が出ることから必ずしも順番通りにはならず、そのときは飛ばして次の回を担当する(大阪府河内長野市寺元:年代不詳)
・六斎衆の場合は、1人入ると1人抜けという形で補充されては抜けていく。その中で最年長の者をオンボ頭(ガシラ)という(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
・2人のうち1人は(本葬で)松明を墓に持っていくサキバシリという役を担う(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
▼「墓穴掘りや墓番専門の人」というのがさきに述べた葬儀屋としてのオンボのことで、通常は集落の者が掘ることになっていたことが分かります。また、「六斎衆」とは六斎念仏を唱える集落で組織されているグループ(講という)のメンバーのことで、六斎講、六斎念仏講が村落自治を行っていたことを示しています。
▼村落共同体には、墓穴掘りは喪家やその親族にはさせない、させてはならないというルールがあったらしく、ほぼ全ての事例が喪家以外の者によるものです。「誰もしてくれない時は家の者が掘る」とは、つまり村八分のことで、葬儀、葬式は村八分という懲戒システムでは免責されているものの、葬儀、葬式の範囲内であっても、できること、できないことがあったと考えられます。
▼墓穴掘りは、死に飛脚(『和歌山紀北の葬送習俗(4)死に飛脚』参照)と同じく、基本的に2人以上で行われます。これは、人手が必要という合理的な理由のほかに、霊魂に連れていかれないようにという呪術的な理由があると考えられます。また、輪番制の地域が多いのは、墓穴を掘る行為と墓地そのものに忌がかかっており、誰もが好き好んでやることではないため平等を図ったと考えられます。
3.墓穴の掘り方や作法
▼墓穴の掘り方に関する事例をみましょう。
・単墓制の墓地では墓穴の場所は跡取りが決めるが、掘り始めてから場所を変更するのは悪いといわれる(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代,和歌山県橋本市:昭和40年代)
・2人ずつが交替で掘り、残りの者は必要に応じて手伝う(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
・朝9時頃に家を出る(和歌山県旧那賀郡粉河町杉原:平成初年代)
・六文銭(現在は1円玉を6枚)と竹の先にロウソクを立てたものを六地蔵に供える(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:平成初年代)
・昔は薄葬だったが、だんだん墓穴を深く掘るようになったが、所によっては「深いのは地獄へ行く」といって嫌う(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・墓穴を掘る時に新しい服(サラゴノゼという)を着用する(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
▼これらの事例に、それほどの特殊性はみられません。単墓制の場合は掘る位置が限られており、墓穴を掘ると古い骨が必ず出土します。そして、これを繰り返すうちに、墓穴を掘るときでなくても墓石の周りに古い骨片が普通に雨ざらしになります。少々生々しい話ですが、管理人の実家の墓がそうでした。
▼また、下写真にみるように、掘られた墓穴には鎌や刃物が吊り下げられることが多く(「カマキリ」などと呼ばれる)、これはもちろん呪術的な意味によるものです。
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4.墓穴掘りに対する謝礼
▼オンボや墓穴掘りに対しては、さまざまな形で喪家や集落から謝礼がもたらされます。事例をみましょう。
(1)食事や酒の提供に関する事例:
・食事をしてもらう(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
・食事と酒を振る舞う(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・オンボに飲ませる酒を「野酒」という(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・オンボには酒5合を持っていく(「墓見舞」という)(奈良県吉野郡大塔村:昭和30年代)
・山の賄い役があり、酒食をさげて接待をする(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・墓穴掘り終了後に浄めの酒を飲む(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・シアゲ(仕上げ)の際に正座に座ってもらい、十分に饗応された(大阪府河内長野市:年代不詳)
・弁当を持って行って接待する。このとき賄いは男性だけで行う(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・垣内から3人が「弁当持ち」として穴を掘っている墓地に酒肴を届ける(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・昔は古い服を渡し、庭で食べてもらった(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:年代不詳)
(2)金銭を渡す事例:
・穴掘り賃は1,000円程度が出る(少し前までは200円ほどだった)(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・穴掘り賃は昔は10銭だった(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:年代不詳)
・穴掘り賃は、喪家が知り合いを指名して頼む時は普段の3倍分支払う(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
(3)入浴してもらう事例:
・喪家で風呂に入ってもらう(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
・喪家で風呂に入ってもらい、上座に座ってもらう(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・喪家で風呂に入って着替えてもらい、上座に座って食事をしてもらう(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・喪家で一番風呂に入って上座に座り、喪主はじめ親戚一同が礼を述べる(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・以前は喪家で一番風呂に入った後、夕食で上座に座ってもらい労をねぎらったが、太平洋戦争以来この風習は廃れた(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
(4)その他の事例:
・一年祭の時に1,000円ほどの品物と食事を出す(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・年忌に招待した(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・サンマイから戻ると僧に浄めてもらう(和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代)
・棺に巻いた晒は墓穴掘りの物となる(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代)
▼食事、酒、入浴はいずれも墓穴掘りに対するお礼の意味のほか、精進落としの意味が含まれていると考えられます。
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▼村落共同体では、古典的な葬儀屋としてのオンボ、そして墓穴掘りの役は、忌がかかっているからといって村人から嫌われることはありません。少なくとも、管理人が見聞きした限りではそうです。集落のオンボは、むしろ大切な役回りであるとして、また村落自治の上で必要不可欠であるとして、身近な存在でした。
🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸
文献
●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●市原輝士ほか(1979)『四国の葬送・墓制』明玄書房(引用p145).
●池田秀夫ほか(1979)『関東の葬送・墓制』明玄書房(引用p133,p293).
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●松本保千代(1979)「和歌山県の葬送・墓制」堀哲他『近畿の葬送・墓制』明玄書房.
●民俗学研究所編(1955)『日本民俗図録』朝日新聞社(引用p128).
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●中野吉信編(1954)『川上村史』川上村史編纂委員会.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。