和歌山紀北の葬送習俗(26)精進落とし
▼遺族及び野辺送りの参列者が帰宅して自宅に上がる前には、墓場の忌を落とすために何らかの呪術的行為が実践されます。今回は、野辺送りから自宅に戻ったところから精進落としまでを取り上げます。
▼なお、登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。
1.帰宅直後のお清め
▼遺族と野辺送りの参列者が墓場から戻ると、まず家に入る前にお清めをします。お清めのスタイルにはさまざまなものがあります。事例をみましょう。
(1)塩を使用する事例:
・塩を跨ぐ(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:平成初年代)
・庭に塩を線上に撒き、それを跨ぐ(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
・塩を振りかけてもらい、その塩が落ちた所を跨ぐ(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・ひと掴みの塩を入口に撒き、それを踏む(和歌山県海草郡旧野上町:年代不詳)
・戸口に塩を振りかける(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・海から遠いので塩は貴重品だったが、葬式から帰ってきた者には塩祓いをして身体を清めた(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
・現在は会葬礼状に清めの塩が添付されている(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
(2)塩と盥(たらい)を使用する事例:
・塩を入れた盥を跨ぐ(奈良県吉野郡野迫川村北股:昭和40年代)
・ひと掴みの塩を入れた盥を跨ぐ(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・ひと掴みの塩を入れた盥と藁一把を跨ぐ(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・ひと掴みの塩を混ぜた水の入った盥で足を洗う(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・藁を敷き、その上に置いたひと掴みの塩を入れた盥に入り、または塩をふりかけてもらい、その塩が地面に落ちたのを跨いでから家の中に入る(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・藁を入れた空の盥の中に入って足と足を擦り合わせて浄める動作をし、塩で浄めてもらう(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・庭に置いた盥の中の塩を踏む(奈良県五條市大津・中筋:昭和30年代)
(3)盥を使用する事例:
・塩や水を入れた器を跨ぐ(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・水を入れた盥を飛び越える(和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・水を入れた盥に足を入れる(奈良県吉野郡野迫川村北股:年代不詳)
・縁の前に置いた盥で手を使わずにこすり合わせて足を洗う(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・今は空の盥を跨ぎ、藁一把で足を洗う真似をして家に上がる(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
(4)臼(うす)を使用する事例:
・野辺送りから帰ると空臼をトントン搗き鳴らした(大阪府河内長野市日野:年代不詳)
・門口の外側に空の盥を置き、内側に臼と杵を置く。右手に杵を持ち、左手で柄杓を持った上で柄杓の柄に蓑を引っ掛けて肩にかかげ、その状態で左足を盥に入れて「親にはなれて一人旅、一夜の宿をお貸し下され」と唱え、空臼を杵で3回搗く。これが終わると家の中に入ることができる(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
▼なぜ塩に穢れの浄化作用があるのか、詳しい民俗学的意味を調べたことはありません。また、管理人は喪家からもらった塩で身体を清めたことがなく、このことにさして罪障感を抱いていません。世代によって、穢れや忌の感覚の重い軽いがあるのでしょう。むしろ、車が潮風で錆びる、高血圧になるなど、塩のネガティブな作用から、塩と共存したいとは決して思いません。塩化ナトリウムという、ある意味強力な毒をもって毒を制するということでしょうか。そういえば、かつて住んでいたマンションの隣にラブホテルがあり、入口には毎日塩が盛ってありました。
▼洗濯機が普及していなかった時代は、盥はどこの家にもあって、盥を使って洗濯をしていたものです。また、プラスチック製品が普及していない時代の盥は、桶と同じく木製でした。したがって、盥によるお清めは特に奇抜な習俗ではありません。このページのタイトル画像には、臼の横にプラスチック製の洗面器が写っています。盥がプラスティック製の洗面器に代わっただけのことです。
▼これらの事例から、お清めは、本来は塩水を張った盥や器に足を突っ込んで、本気で身体を清めていたものが、そのうち面倒臭くなって、盥や器を跨いだり、飛び越えたり、洗う真似をしたりすることによって「清めたことにしておこう」と簡略化、形骸化していったと考えられます。
2.精進落とし
▼会葬者が喪家の庭でお清めを終えると、精進落としの食事をするのが一般的です。まず、その名称に関する事例をみましょう。
・野帰りの膳、野帰りの酒(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・仕上げの膳(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・斎膳(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・一膳飯(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・山戻りの斎(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・出で立ち(和歌山県海草郡旧和佐村:昭和10年代)
・三十五日(葬式から帰ってきた人に出す小豆飯のこと)(奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代)
▼そして、この膳で提供される食事の内容にはさまざまな事例があります。いくつかにカテゴライズしてみます。
(1)全般的な内容の事例:
・皆で食事をする(奈良県大和郡山市小泉町:平成20年,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・一般に精進料理が出される(和歌山県海草郡旧初島町:年代不詳)
・親戚の者が弁当を食べる(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
・野辺送りから帰った者に食べてもらう(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・他の大字の会葬者にも饗応した(和歌山県旧那賀郡粉河町:大正年間頃まで)
・他の大字の会葬者にも精進料理を饗す(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・昔はめったに口に入らぬ米飯も葬式の食い別れには食べられたという(奈良県吉野郡野迫川村今井:年代不詳)
(2)酒が提供される事例:
・一杯飲み、魚も食べる(和歌山県旧那賀郡貴志川町甘露寺:昭和50年代)
・各戸全部に本膳を作り、酒飲み放題の御馳走をした(奈良県吉野郡野迫川村北股:年代不詳)
・現在も酒は飲み放題である(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
(3)手伝人への饗応に言及した事例:
・手伝人(村人の1/3程度)に饗応する(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・家族がシアゲの膳を行い、それが終わると手伝人らが食事をする(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・手伝人らが墓地から帰って膳につく(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・葬式を手伝えば身に不浄が及び、四十九日法要が済むまで神社参拝等の謹慎が求められるなど迷惑がかかるので、精進上げをし、これを手伝人の満中陰とする(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・参列者に酒肴を振る舞う習わしだが、民力涵養提唱以来飲食はほとんど廃止された(もちろん手伝いの者には出す)(和歌山県海草郡旧和佐村:昭和10年代)
(4)特異な事例:
・団子3つに茶をかけて一本箸で食べる。これで厄落としが終わる(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
・血のかかっていない者は別座で食べる(これを食い別れという)(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・集落から貰い物に来る者がおり、残飯を握り飯にして与えた(これを食べると来世に生まれ変わるという)(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
(5)食事以外の事例:
・最近は御膳を廃し、代わりに粗供養として葉書、手ぬぐい、足袋等の品物を出す(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・饗応から葉書や足袋を贈ることに変わってきた(和歌山県旧那賀郡粉河町:大正年間頃以降)
・最近は斎膳の煩雑を避けるため、膳代わりとして葉書や足袋等の物品を呈する風が大いに行われつつある(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・饗席で親戚総代が感謝の挨拶に出て、粗供養として足袋または手拭いを一同に引く(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・饗応後に粗供養として葉書、手ぬぐい、足袋等を渡す(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・饗応後に垣内の者らが香奠を開く(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
▼以上にみるように、精進落としは、遺族や会葬者の厄落としが第一義的な目的です。そして、上記(3)和歌山県旧那賀郡田中村の事例の如く、忌明けまで行動が制限される手伝い人に対する満中陰として、忌から解放する目的があったことが理解できます。
▼3つの団子に茶をかけて一本箸で食べると厄が落ちるという習俗は、その意味をはかりかねます。ここでも、以前、「4=死」以上にマジカルナンバーであると指摘した「3」という数字が登場します。
▼全体として、昭和初期頃までの精進落としはかなり豪勢に催されていたらしく、戦時国家の下で質素化され、精進落としが香典返しや満中陰志などの儀礼と混合、習合されてきたという歴史があるようです。
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▼野辺送りと土葬がほぼ全滅し、火葬という極めて簡素化された葬送であっても、お清めや精進落としの習俗はなお残っています。ただ、そうしたことは全て葬儀屋が手配してくれます。
▼この場合、上の事例でみたような手伝い人にも死忌みはかかるわけで、ということは葬儀屋の担当者にも死忌みがかかっているはずです。仕事のたびに厄払いをしているのでしょうか。それとも、管理人のように、死忌みや穢れに対する執着が低く、放置しているのでしょうか。
🔸🔸🔸(もう少しで終了予定ですが)次回につづく🔸🔸🔸
文献
●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●後藤義隆ほか(1979)『南中部の葬送・墓制』明玄書房(引用p40、p87).
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●初島町誌編集委員会編(1962)『初島町誌』初島町教育委員会.
●堀哲ほか(1979)『近畿の葬送・墓制』明玄書房(引用p42).
●池田秀夫ほか(1979)『関東の葬送・墓制』明玄書房(引用p93).
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●田中麻里(2010)「奈良県の田の字型民家における葬送儀礼の空間利用―告別式、満中陰、一周忌を事例として―」『群馬大学教育学部紀要:芸術・技術・体育・生活科学編』45、pp145-152.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
●和佐尋常高等小学校編(1937)『和佐村誌:郷土調査』和佐尋常高等小学校.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。