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和歌山紀北の葬送習俗(18)本葬
▼遺族にとって葬儀、葬式はバタバタしており、その舞台の装置や演出を事細かく観察するゆとりはありません。むしろ、他家の葬儀、葬式で気づくことが多いものです。今回は本葬を取り上げますが、あまり気づかず、あるいは見過ごしがちな項目に焦点を当ててみます。
▼登場する市町村名とその位置は『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。
1.喪服
▼喪服は黒や灰色で、ネクタイや靴下も一様に黒、そしてネクタイピンなどの光り物はつけないというのが一応の「作法」とされています。この「作法」とやらは戦後、それも昭和中後期に形成されたものです。また、葬儀の手伝いに来てくれる集落の男女は、たしかに半通夜や本葬などの「式」では皆喪服を着ていましたが、それ以外の場では普段着でした。
▼早速事例をみましょう。
・喪家や親族は白一色(白い着物、白帯、白のかずき)(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代,和歌山県橋本市:大正時代頃まで)
・黒い喪服を着るようになったのは大正から昭和にかけてである(奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代,和歌山県橋本市:大正年間から昭和年間にかけて)
・近親者は「イロ」(白色)を着る(奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代)
・親戚等血の濃い者は普通の着物の上にさらに晒で作った色着物(イロギモノ)という白無垢を着たが、これに帯はつけなかった(奈良県吉野郡旧大塔村篠原:昭和50年代)
▼さらに、男女別にみると以下の事例があります。
・男性は大抵は黒の紋付着物及び羽織(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・男性の親族縁者は黒の紋付袴(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・男性の近親者のみ裃を着用し一文字笠を被る(和歌山県旧那賀郡:大正10年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・女性は白無垢(和歌山県旧那賀郡:大正10年代)
・女性の親族縁者は白無垢を着用(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・女性は白無垢を着け、その左の袂を頭から被る(奈良県吉野郡野迫川村今井:年代不詳)
・女性は白い着物に白いかつぎの左の袂を頭から被り、後は垂らす(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:戦前まで)
・女性は今は位牌を持つ人だけが白無垢をかけ、左の袂を被る(吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
▼女性の白無垢に代表されるように、喪服はかつて白でした。このシリーズでは、要所要所で葬儀、葬式の手伝いをする人が白い服を着用する事例がしばしば登場します。喪服がなぜ黒や灰色でなければならないのかよりも、なぜ白でなければならなかったのかを追究するほうが興味深く、白という色が何らかの呪術的意味を持っていたことはほぼ間違いないでしょう。
▼白から黒、灰色に移行した最大の理由はどうやら合理的な側面にあるらしく、時代が下るにつれて喪服が簡素化され、平服を喪服として使うようになったこと、また、洋装が普及して裃などを着用しなくなったことなどが関係していそうです。
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▼一方、以前『和歌山紀北の葬送習俗(6)遺体の取扱』で触れた「三角布」ですが、これを着用する事例が意外に多かったことが判明しました。三角布を含め、喪服に準ずる装飾に関する事例をみます。
・参列者は額に紙冠をつける(和歌山県旧那賀郡貴志川町甘露寺:昭和50年代)
・参列者は「ごま塩」という白い紙片を耳に掛けて歩く(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和40年代,奈良県吉野郡旧賀名生村:昭和30年代)
・参列者は「ごま塩」という三角の紙を持つ(奈良県五條市大津:昭和30年代)
・参列者はカミヨリで三角の紙を止めたものを胸にぶら下げる(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・参列者は額に三角紙を当てていたが自然と廃止された(和歌山県:大正年間)
・葬列の役つきの者は額に三角の額紙をつける(奈良県吉野郡野迫川村今井:昭和40年代)
・血の濃い者は三角の白紙に紐をつけて「ア」字を書いたボーン(梵)を額につける(現在はちょっと身につける程度)(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・参列者は紀州笠という扁平の笠を被っていた(和歌山県:大正年間)
・被り物はない(奈良県五條市大津:昭和30年代)
▼このように、三角布の習俗は和歌山県北部及び奈良県南部に蔓延していたことがわかります。これも、近年装着しなくなった理由は「自然と廃止された」とあるように、観念的なものではなく「それがなくても問題がない」という判断が働いたはずで、作るのが大変だからなど合理的な理由によると考えられます。
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2.本葬をすべきでない日と時刻
▼本葬は、それを行うべきでない日や時刻があり、これは現代のハレ行事が特定日に開催しないのと同じです。事例をみましょう。
(1)回避すべき日:
・卯の日は避ける(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・卯の日の葬式は、卯かさなるといって二度あることを恐れるという(和歌山県海南市:年代不詳)
・卯の日は出棺を遅らせる(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
・卯の日は提灯をつけて墓に行く(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・友引の日は避ける(和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代,和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代,和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・友引の日にやむを得ず行う時は時間を遅らせる(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・友引の日は出棺時刻を遅らせる(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代,和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡粉河町:平成初年代)
・友引の日は出棺時刻を2時間ほど遅らせる(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・友引の日は出棺時刻を暮れ方まで待つ(奈良県五條市大津:昭和30年代)
・友引の日は棺の中に人形を入れるか1日延ばす(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・大晦日に死亡すれば正月2日に行う(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・12月25日から正月15日までの間に死亡すれば自分の家だけで密葬する(和歌山県伊都郡かつらぎ町平:昭和50年代)
(2)回避すべき時間:
・葬式を午前中にすると不幸が重なるといわれ、大抵午後にする(和歌山県海草郡旧野上町:昭和60年代)
・葬列は日中に出てはならない(奈良県吉野郡旧大塔村:昭和30年代)
▼以上のように、日程としては卯の日(エトの日)と友引の日、それに年末年始は避けるべき日とされており、また時間としては午前中を避けるべきとされていたようです。卯の日はハレの行事が行われやすい日で、したがってハレの行事の日に本葬をすると死忌みが神様にかかりかねないという観念によるもの、また「卯の日は凶事が重なる」という俗信によるものと考えられます。また、友引は故人に引っ張られるという観念によるものと考えられます。
▼一方、午前中に本葬をしない理由はわかりません。たしかに、昔も今も、本葬を午前中に行う例はあまり聞きません。
▼止むを得ずこれらの日に本葬を行う場合の補償手段としては、夕方まで時間を遅らせることが一般的で、これはハレの行事が終了する時間帯ということであると考えられます。
3.本葬における鉦の使用
▼鉦(かね)とは、鐘のことです。あのわびしくて物悲しい、いかにもカラスを呼び寄せそうな鉦の音を日常的に聴くことはなくなりました。村落共同体に暮らす人間にとっては、昼間に響く鉦の音はどこかで葬式が行われたことを示すしるしのようなもので、現に鉦は情報伝達手段でした。昔、小学校の運動会当日の朝に花火を一発打ち上げたのと同じです。
▼打ち鳴らされる鉦の回数には意味があります。事例をみましょう。
(1)イチバンガネ(一番鉦):
・一番鉦は式の始まりの合図(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代,和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・一番鉦は本葬の2、3時間前に叩く(和歌山県伊都郡旧天野村:昭和20年代)
・一番鉦は僧が読経を始めると叩く(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:平成初年代)
・一番鉦は出棺の予告(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和50年代)
・一番鉦は出棺の前鉦(和歌山県旧那賀郡西貴志村:昭和10年代)
・一番鉦と二番鉦が出棺の合図(和歌山県旧那賀郡池田村:昭和30年代)
・一番鉦は村の年長者で念仏が最も上手い者が叩く(大阪府河内長野市滝畑:昭和50年代)
(2)ニバンガネ(二番鉦):
・二番鉦は式の始まりの合図(和歌山県伊都郡旧天野村:昭和20年代)
・二番鉦は本葬の中ほどで叩く(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・二番鉦は集まって役割の読み上げ(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和50年代)
・葬儀の進行を村中に知らせる六斎鉦をソウレ鉦という(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和50年代)
(3)サンバンガネ(三番鉦):
・三番鉦は出棺の合図(奈良県五條市大津,和歌山県橋本市,和歌山県伊都郡旧天野村,和歌山県旧那賀郡粉河町藤井,和歌山県旧那賀郡打田町,和歌山県旧那賀郡田中村:年代は省略)
(4)その他:
・年長の者が「モウコン、モウコン」(亡魂)と言って鉦を叩く(和歌山県旧那賀郡粉河町鞆渕:平成初年代)
▼総じて、鉦は式次第の合図という合理的、機能的な目的のために使われており、呪術的な意味はあまりなさそうです。ただ、「念仏がうまい年長者が叩く」事例にみられるように、鉦は六斎念仏で多用されていることから、六斎念仏と葬儀、葬式との関係が密接であることがうかがえます。
4.本葬におけるその他の習俗
▼その他、本葬に関して気になる習俗を取り上げてみます。
・葬儀当日に斎(トキ)を配る。垣内斎(垣内各家に10銭ずつ配る)と村斎(東西2つの垣内各家に10銭ずつ配る)があった(和歌山県旧那賀郡貴志川町丸栖:年代不詳)
・葬儀当日に十三仏の掛け軸を掛ける(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・六斎念仏が葬儀を行うのは家の年長者(男女)が死亡した時だけで、それ以外の場合は行わない(和歌山県伊都郡かつらぎ町下天野:昭和55年)
・葬儀に多額の費用をかける弊風が蔓延していた(和歌山県:大正年間)
・(戦中のため)告別式はあまり行われず、葬列は昔のまま行われている(和歌山県海草郡旧和佐村:昭和10年代)
・主人の葬式の日は農耕牛を他人に預けるか、葬式後に新しい牛と交換する(これを「ケガエ」という)(奈良県吉野郡旧西吉野村:昭和30年代)
▼これらのうち、気になるのは牛にも死忌みが及ぶと考えられていたことで、本葬当日に隔離する、葬儀後に交換するなど徹底しています。おそらく、農耕への影響が懸念されたのでしょう。
🔸🔸🔸(まだまだ)次回につづく🔸🔸🔸
文献
●賀名生村史編集委員会編(1959)『賀名生村史』賀名生村史刊行委員会.
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●後藤義隆ほか(1979)『南中部の葬送・墓制』明玄書房(引用p22).
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●市原輝士ほか(1979)『四国の葬送・墓制』明玄書房(引用p51、p61).
●河内長野市役所編(1983)『河内長野市史.第9巻(別編1:自然地理・民俗)』河内長野市.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●三浦貞栄治ほか(1978)『東北の葬送・墓制』明玄書房(引用p247).
●村山道宣(2011)「民俗調査報告:紀伊の六斎念仏」『人文・自然研究』(一橋大学)5、pp158-205.
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡池田村公民館編(1960)『池田村誌』那賀郡池田村.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●西貴志尋常高等小学校・西貴志青年学校編(1939)『西貴志村郷土誌:昭和14年3月調査』西貴志尋常高等小学校.
●西吉野村史編集委員会編(1963)『西吉野村史』西吉野村教育委員会.
●野田三郎(1974)『日本の民俗30和歌山』第一法規出版.
●野上町誌編さん委員会編(1985)『野上町誌.下巻』野上町.
●大塔村史編集委員会編(1959)『大塔村史』大塔村.
●大塔村史編集委員会編(1979)『奈良県大塔村史』大塔村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
●和佐尋常高等小学校編(1937)『和佐村誌:郷土調査』和佐尋常高等小学校.
●渡辺幾治郎・樋口功編(1914)『和歌山県誌.下巻』和歌山県.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。