和歌山紀北の葬送習俗(28)忌明け
▼随分前のページで「死忌み」なるものを取り上げました(『和歌山紀北の葬送習俗(5)死忌み』参照)。
▼そのとき、死忌みには有効期限がある点を指摘しました。いつまでも死忌みがかかったままでは、遺族は通常の社会生活に戻ることができません。したがって、故人の霊魂にはそろそろあの世に行ってもらわなければなりません。そのための成仏儀礼が忌明けであり、その後は追善儀礼に移ります。
▼成仏儀礼、追善儀礼とは何かについては、『和歌山紀北の葬送習俗(1)予備知識』を参照して下さい。
▼このページの事例に登場する市町村名とその位置は、『和歌山紀北の葬送習俗(3)死亡前の習俗』を参照して下さい。ほとんどの事例は全国各地にみられることから、掲出している市町村名にあまり意味はありません。
1.忌明け
▼まず、故人の霊魂は一体全体、いつまで喪家にとどまっているのでしょうか。事例をみましょう。
・故人の霊魂は四十九日の間は家の棟にいる(奈良県吉野郡野迫川村:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・故人の霊魂は四十九日の間は家の棟でじっと見ている(和歌山県旧那賀郡貴志川町丸栖:昭和50年代)
・故人の霊魂は四十九日の間はその家に残っている(奈良県吉野郡野迫川村北股:昭和40年代)
・故人の霊魂は四十九日の間はその家にいるので線香の火は絶やさない(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
▼このように、故人の霊魂は、死後49日間は喪家の家や屋根の上から遺族を眺めているようです。死忌み自体は穢れ観念に由来するもので、これが四十九日という仏教上の追善供養行事と習合して49日目を忌明けとすることが多いようです。
▼なお、死忌みの有効期間自体は、短いもので3日、長いもので1年ですが、1年も死忌みがかかると社会生活に支障をきたすはずで、そうした合理的な判断もまた、四十九日という仏教追善行事と習合した一要因となっていると考えられます。
▼さて、有効期限が過ぎたときに、喪家ないし遺族が行うべきことに関する事例をみましょう。
・僧、親戚知己を呼んで「ぶくよけ」を営む(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・笹等で室内を掃き清める(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・神棚の白紙を撤去する(和歌山県橋本市:昭和40年代,和歌山県伊都郡かつらぎ町大久保:昭和50年代、和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・肴で精進上げをする(和歌山県橋本市:昭和40年代)
・身内5人ほどで粉河寺に行って精進上げをし、帰宅後は近所の人たちと精進上げをする(和歌山県伊都郡かつらぎ町天野:年代不詳)
・香奠返しに盛物を贈り、縁者にショウブ分け(形見分け)を行う(和歌山県旧那賀郡粉河町:昭和30年代)
・塔婆を立てる(奈良県五條市中筋:昭和30年代)
・粉河寺の忌明堂に納骨する(和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保:昭和50年代)
・故人の骨(頭髪・爪)を詣り墓に納める(和歌山県旧那賀郡貴志川町北山:昭和50年代)
▼忌明けに実践される行為は、民間習俗としての行為と、仏教追善儀礼としての行為に分けられます。故人の霊魂が喪家から旅立ったならば、神棚に貼った紙を撤去し、室内を掃き(忌のかかったホコリを掃き出す意味と、残存している邪悪な霊魂を掃き出す意味の両方が考えられる)、精進上げなどをして、晴れて忌明けとなります。
▼「粉河寺に行く」という事例は、特に遺骨やそれに準ずるもの(故人の遺髪や爪など)を粉河寺に納める仏教習俗を持つエリアのものです。この、粉河寺に対する帰依は、極めて局地的な事例です。この界隈で圧倒的な政治力を誇るのは高野山真言宗で、和歌山紀北地域と奈良県南部地域では高野山に納骨する仏教習俗が根づいており、これは別ページにて、いずれ近いうちに必ず取り上げます。
2.カワマイリ
▼忌明けに関連する習俗として、カワマイリ(川参り)という習俗があります。これは、三十五日や四十九日に河原で石を積むというものです。事例をみましょう。
・三十五日に身寄りの者が付近の川へ行って石を積んで供養をし、その帰り道に向こう7軒から白米を少量ずつもらい、それに足し米をして四十九日の団子を作った(和歌山県旧那賀郡:年代不詳)
・四十九日に一同が墓参後、付近の小川へ行って僧の再読経があり、石を積んで賽の河原の石積みの型をする。竹筒に川水を汲み帰る(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・四十九日に親戚縁者が墓参後、付近の小川へ行って僧の読経を受けて石を積み、賽の河原の石積みの形を作る。このとき水を汲んで持ち帰る(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
・四十九日に墓参後に賽の河原と呼ばれる場所に行って石を7、8個積んで参る。このとき真竹の一節分で作った竹筒に水を汲み、これを持ってお宮に行って清めた(これを忌明け参りという)(和歌山県旧那賀郡粉河町藤井:平成初年代)
・カワシヅツ(川塩筒と思われる)2本に川から水を汲んできて1つはヘッツイに、もう1つは神棚に供える(和歌山県旧那賀郡岩出町:昭和40年代)
・賽の河原で汲んだかわし(川水、川塩)を屋内へ打ち、神棚に貼った紙を剥がし榊を立て換える(和歌山県旧那賀郡田中村:昭和10年代)
・賽の河原で汲んだ水を屋内に打って神棚の白紙を剥がし榊を立てる(和歌山県旧那賀郡打田町:昭和60年代)
▼川参りの要点は、①墓参りをする、②その後、河原で石を積む、③そのとき水を汲む、④その水で神棚を清める、ことです。
▼事例にみるように、この習俗はいわゆる「賽の河原」が意識されており、地元の河原を賽の河原に見立てて、故人が川を渡るのを見送るというわけです。賽の河原における石積みは通常、子どもの夭折にまつわる仏教伝承であり習俗ですが、上の例は特に子どもに限ったものではありません。
▼なお、和歌山県北部や奈良県南部では、四十九日に49個の団子や餅を作って近隣に配布するという習俗があり、シジュウクニチノモチ(四十九日の餅)やカサノモチ(笠の餅)、イミアケノモチ(忌明けの餅)、ヒヤケノモチ(忌明けの餅)などの名称があります。川参りにおける一番上の事例でも、「四十九日の団子」が登場しています。
▼しかし、四十九日法要とその団子については内容を省略します。四十九日法要やそれ以降の追善儀礼としての仏教習俗は、多少の地域差はあるにせよ、行事のスケジュールが定型化、制度化されているため、民俗学的な関心をそそられにくいのです。
▼また、追善儀礼のステージに至ると、供養すべき故人はもはや個人ではなく「家の先祖」というくくりに入れられ、儀礼は事務的に処理されがちです。追善供養は、原理原則の上では一生涯しなければなりません。つまり、仏教の追善供養は家制度を前提としているのです。平均世帯人員が2を切ろうとしている現在、葬送をめぐる仏教習俗は誰が継承していくのでしょうか・・・
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▼そろそろ終わりが見えてきました。管理人が強く関心を持っていることがらがあと2、3あるので、もう数週間ほどお付き合い下さい。
🔸🔸🔸次回につづく🔸🔸🔸
文献
●五條市史調査委員会編(1958)『五條市史.下巻』五條市史刊行会.
●橋本市史編さん委員会編(1975)『橋本市史.下巻』橋本市.
●岩崎敏夫編(1972)『東北民俗資料集2(鳥海山信仰・ほか)』万葉堂書店、(引用巻頭).
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県那賀郡貴志川町共同調査報告」『近畿民俗』82、pp1-28.
●近畿民俗学会(1980)「和歌山県伊都郡かつらぎ町天野共同調査報告集(Ⅰ)」『近畿民俗』83、pp3369-3436.
●粉河町史専門委員会編(1996)『粉河町史.第5巻』粉河町.
●民俗学研究所編(1955)『日本民俗図録』朝日新聞社(引用p131).
●那賀郡編(1922-23)『和歌山県那賀郡誌.下巻』那賀郡.
●那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部.
●野迫川村史編集委員会編(1974)『野迫川村史』野迫川村.
●沢田四郎作・岩井宏実・岸田定雄・高谷重夫(1961)「紀州粉河町民俗調査報告」『近畿民俗』27、pp888-906.
●玉村禎祥(1972)「紀州岩出町の民俗―人生儀礼―」『民俗学論叢:沢田四郎作博士記念』pp88-95.
●東京女子大学文理学部史学科民俗調査団(1985)『紀北四郷の民俗:和歌山県伊都郡かつらぎ町平・大久保』東京女子大学文理学部史学科民俗調査団.
●打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
※各事例に付記した年代は、文献発行年の年代(例:昭和48年発行→昭和40年代)とし、その文献が別文献から引用している場合(=管理人が孫引きする場合)は原文献の発行年の年代を付記した。但し、文献収集の段階で現代の市町村史が近代のそれをそのまま転載している事例がいくつか判明した(例:昭和中期の『●●町史』が大正時代の『●●郡誌』を転載、昭和中期の『●●町史』が昭和初期の『●●村誌』を転載、など)。したがって、事例の年代に関する信頼性は疑わしく、せいぜい「近世か近代か現代か」程度に捉えるのが適切である。