『人間失格』読了
恥の多い生涯を送ってきました。
あまりに有名なその一文は私を「人間失格」へ誘うには十分だった
日本文学を専攻しておきながら有名作品をかわしてきてしまった私はこの「人間失格」を読まずに生きてきてしまった。
それこそ「恥の多い」生涯のひとつかもしれないな、と、思った。
ところでこの本を買うにあたって、考えたことがあった。
私は画面で本を読むのは疲れてしまうので、紙媒体が好きというアナログな人間なのだが
本を購入したら、収益は出版社の利益になるのだろうか。
利益を発生させても印税として太宰の懐に入ることがないと思うと、とてもかなしくなった。町中で偶然会ってよかったですと感想を伝えることも叶わない。なんてかなしい。
こうして研究のためじゃなく、読みたいから購入するということにかなしみを覚えた。読みたくて読んで好きになっても彼らには届かない。印税として還元することもできない。そんな悲しい話、あっていいのかなぁ。
だからわたしは彼の生きた証を読んで私の証にしていくことにした。
私も喜劇名詞悲劇名詞、アントニウム当てのできる友人がほしい。
有名な作品は有名になるだけの理由があるのだ。
数ページ読んであっという間に没後100年を越える作家のファンになった。
そこには私が自己と向き合い生傷をさわったときのモヤモヤがしっくりくる言葉で丁寧に綴られていた。
でも、文学を学んでいるものを別として、世間の人々から純文学というものは敬遠されがちだ。
しかし私から言わせればこんなにすごいものを、訳がわからんと一蹴している人間たちが怖くなった。自己の知らない部分を知らないまま幸せに生きて、本気で生きたいと一生願いながら死ぬのか。
私にはできない生き方だ。ある意味そちらの方が幸せかもしれない。
しかし私はいわゆる繊細さを放棄してまで楽に生きようとは思わなかった。
道化を演じる主人公の生き方が好きだった。
自分の存在を完全に隠蔽したいから、バレてしまったらそれは恐ろしいことなのだ。
すべてを引用したいくらい自分の生傷を抉ってくる太宰の自意識が、私には心がいたくていたくていたくて仕方ないのに、ずっとずっとそれを望んでいたかのように目を離すことができない。
純文学においてあらすじを説明するのは野暮だと思う。真意ははあらすじではないからだ。言葉の一つ一つ、人間の心がほんとうで、あらすじはそれを説明するための装飾でしかない。
ぼんやりとした不安を抱えて、きっかけさえあれば主人公がそうしたように心中して死んでしまうことが可能だ。死という実感を持たずして死は案外近くにある。手を伸ばせば届くところにある。自分が手を伸ばせると気付いたなら死が明確に近くにあると、死が形をもって目にはいるだけだ。メガネをかけたら、ものがはっきり見えるように。
世間とは誰か、という問いが私のなかに響いた
ずっとモヤモヤしていた「世間」とは、誰なのか。
「世間が許さない」なんて文句を垂れながら、世間体、世間話、世間知らず、世間とは、なんなのか。
世間とは個人だ。
世間がゆるさないのではない。あなたがゆるさないのだ。
世間体ばかり気にする友人の恋人を思い出す。
肩書きを求め、自由を手放してまで気にする「世間」は
実はあなたのなかにしかないのではないか。
これは、「普通」の概念とも似たところがあるように思った。
「普通」とは誰の中の普通なのか。
個人の中の、普通でしょう?
拾い上げればきりがない。この「人間失格」は私のなかでバイブルとして分類される書だ。
まさに文学。文字の芸術。
数々の研究者が悩み、調査し、分析したであろう(私は先行論を見ていないので確証はないが)太宰治の「人間失格」。
人生において、出会ってよかった。
「ただ、一さいは過ぎて行きます」
阿鼻叫喚の人間世界にもこれだけは真理であった。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
声に出して、なぞる。
そう、ただ一さいは過ぎて行くのだ。
これをポジティブにとるのかネガティブにとるのか、
はたまたただの諸行無常か。どの場面にも通用するから真理なのだろうと思う。不思議だ。
「ただ、一さいは過ぎて行きます」