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【伝統工芸に学ぶ教育論】第5章:精神性
この章では、モノ(特に工芸品)が私たちにもたらす影響を「精神性」にフォーカスして展開していきたいと思います。
5-1:人類とモノ
人類、特に日本人はもっと「モノ」について深く知らなければならないと思う。器、道具、ツール、などこれらによって生活は支えられている。歴史的に考えると、人類の発展は、道具の発展に比例している。土器、石器、刀、銃、船、車、パソコン、携帯電話、スマートフォン・・・。
各時代を象徴する道具を並べてみたが、我々の生活は、これらがあるとないとでは、全く様相が違うと思う。これは、「豊か」とか「便利」などという満足度を図る次元ではなく、人類が道具によって「変わってきた」「変えられてきた」ということを表していると考えていい。もし、道具というものが無ければ、我々は、サバンナにいる野生の動物と同様に、素手で獲物を狩らなければならない。だが、我々は脳を使い、より効率的な方法を考え、工夫し、槍や弓や罠を仕掛け、獲物を狩ったり、木のなる実を採集し、生き延びてきた。
「考える」という作業が「道具」を生み出してきた。
だが、反対に
「道具」によって「考える」
が引き起こされることもある。
※こちらは第16章:お碗で展開します。
これこそ、我々はもっと深く考えなければならないと思う。つまり、道具は人の可能性を広げるものであり、10というエネルギーを使って2の成果しか得られなかったことが、何かしらの道具を使うことで、2のエネルギーで10の成果を得られることになってきた。いわゆる効率的、便利ということだろう。
でも、道具は考えられた目的のために正しく使われない可能性も秘めている。相応しい人格を持ち合わせていないと、凶器と化すこともある。
これも反対に、「道具が人格を変えさせる」ことも起こりうることがある。人類の発展と道具は、戦いの歴史を歩んできてしまったことも忘れてはならないだろう。
話を工芸品に向けてみたい。
皆さんは、日常で使うお茶碗やお箸を眺めることがあるだろうか?
その仕事に関わる職人やバイヤー、お店で代わりのものを買おうとしている方であれば、吟味することもあると思う。だが、毎日の食事、食器洗いで眺めること、愛でることはほとんどないと思う。当たり前にあるものだから、考える必要がないのだ。
では、お伺いしたい。
果たして、
お茶碗やお箸に私たちは何も感じていないのだろうか?
全く興味がないのだろうか?
いや、どうもそれは違うようである。
私たちは、日本という国に住み、非常に過酷な「超自然災害国」にいる。活火山の上に住んでいるようなもの。台風の通り道を選んでいるようなもの。
なんでそんな生命の危険が孕むところに日本人は住むのだろう。
勿論、理由はある。そんな「超自然災害国」だから日本は守られた歴史もあるし、何より、「育まれてきた精神性」がある。
「八百万の神」「諸行無常」「もののあはれ」
万物には、神が宿っている。
万物は変化・消滅がたえない。
物、哀れで儚いさまを想う気持ち
特に、このような言葉を生み出してきた日本、日本人は、「一瞬で環境が変わる」ことを、幾度となく味わってきたのだと思う。歴史の教科書を見ても分かるものだ。それが、世界の国々とは少し異なり、「人」ではなく「自然」によって環境が変わることが繰り返されてきた。
だからこそ、一瞬を大切に、でも執着をしないスタンスが、しっくりくるのかもしれない。
では、問いに戻る。
お茶碗やお箸に私たちは何も感じていないのだろうか?
全く興味がないのだろうか?
環境が変わった瞬間に日常に使うお茶碗やお箸が私たちに、
何をもたらしていたのかが、浮き彫りになってくる。
5-2:工芸品は心を豊かにし、満たす
工芸品は、単なる実用的な「道具」としての機能だけではなく、人々の心に豊かさと満足感を与える存在なのである。手作りの一品には、職人の技術や魂が込められており、それに触れることで私たちは、
「あの職人さんから買ったお箸」
「あの時に訪問した工房さんで買ったお碗」
と、
物理的な機能以上の、心に温かさを感じ取ることがある。
思い出のようなワンシーンが想起されることで、繋がりを感じる。
5-3:記憶装置としての工芸品と震災後の行動
2024年1月、能登半島に大地震があった。
(被災された方には心からお見舞い申し上げます)
非常事態が、日常生活を一変させる。
例えば災害により当たり前の日常を失ったとき、人々はその日常を取り戻すために、心の拠り所が必要である。その一つが、日常で使っていた食器や家具などの「象徴的なモノ」が挙げられる。日本では幾度と震災があるが、多くの人ががれきの中から日常の象徴である食器や家具を探し出し、それを修復して再び使う行動がみられる。これは、モノが単に実用的な役割を超えて、私たちの「記憶装置」として機能していることを示している。私たちは、モノを通じて、失った日常をもう一度感じ取り、そのモノを使うことで心の平穏を取り戻していくのである。
工芸品は特に、その一つ一つが唯一無二の「物語」を持っており、それが私たちの生活と記憶を繋ぎ止めてくれるのだ。工芸品が丈夫であることも、その一役を十分担えるだろう。
災害後の混乱の中でさえ、私たちはモノを通じて、過去の日常や大切な記憶に触れることができるのである。
5-4:物が語る、過去と未来を繋ぐ縦糸
工芸品や日常の品々は、過去と未来を繋ぐ「糸」とも言える。工芸品は長い時間をかけて、人々の手で育まれてきた歴史や伝統、技術が込められており、それを使い続けることで、私たちはその歴史や記憶を未来へと継承していく。
例えば、家族で代々受け継がれてきた器や家具は、単なる物質ではなく、家族の歴史や思い出が凝縮された存在とも言える。それを使うことで、過去の出来事や思い出が甦り、またそれを子どもたちに渡すことで未来へと続く物語を紡いでいくことができる。
5-5:ブランドと階級
現代社会における「ブランド」は、単なる物の使用ではなく、自己表現や他者との関係を示す手段でもある。ブランド品を身に着けることは、特定の階級や価値観を表現し、他者に見せるための手段となっている。「見てもらいたい」という願望は、人間の欲求に根ざしており、ブランドはそれを象徴的に示す道具となりえる。ブランド品を持つことは、単に所有者の財力やステータスを示すだけでなく、その人が持つ美的感覚や価値観、そして社会的な位置づけを他者に表現する役割を果たすともいえる。
しかし、日用使いされる工芸品の場合、それは「表現」のためのものではなく、どちらかといえば「使用する」ことで所有者の内面的な豊かさや心の充足感を象徴する存在であるだろう。
※いわゆるブランド品も、そもそもは工芸品とも同様な手仕事品として重宝されてきた過程があることも忘れてはいない
5-6:事例①転居と記憶
興味深い研究の一つに、老人が転居した際に長年使っていた食器や日常品を新しいものに切り替えることで、認知症の進行が早まる可能性があるというものがある。これは、日常のシンボルである「モノ」が私たちの記憶や安定感を支えているため、と考えられている。長年使い慣れた食器や家具には、その人の生活のリズムや記憶が刻まれており、それらを手放すことで日常の流れが失われるのである。私たちは、日常生活を軽視していると、私は考える。日常生活が不安定になれば、いわゆる足場が安定せず、心も不安定になることは分かるだろう。日常の生活を構成する「モノ」も、安定して使う、丁寧に使う。その「当たり前のもの」が心の安定を保つ重要な要素であり、反対にそれを失うことが、精神的な混乱を引き起こす要因となります。
第6章:道具
是非、お待ちいただければ幸甚である。