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停刻のホテル

春だというのに

金谷ホテルへと向かう並木の日陰は

いまだ残雪が氷々と残る坂であり

私はそれを身体の底に蔓延る鎮静を保ち

こつこつと登っていた


木製の回転扉が軋み廻ると

私は時代の坂を抗い登って来たことに気づく

黒服のベルボーイの挨拶が

私の懐を律儀にノックした


老いたホテルの木柱は

大谷石であつらう壁が

無骨に屋を支え生き長らえている


靴裏には威吹くはずの激しい赤模様の絨毯が

ロビー全体に張り巡らされてはいるが

威吹きの咆哮は無心にも聞こえず

それはどっしりと私の来訪を受け止めては

ひたすらに笑む懐柔な表情をしていた


うすら曇った窓から映える庭園は

しつこい冬が春を追いかけまわしてはため息を吐く


ラウンジに置き去りのしわの多いソファーに腰掛け

古い友人に手紙を出そうとペンを握ったが

ここには刻忘れの古く燻された香りが

ムラの無い塗り食器の塗料のように

巡り染まっていた為

私は目の前に広がる停刻の絵画の登場人物として

なにもしない動かぬ贅沢を懐情に焼きつけた


フロントで案内人と話す前に

一刻の時間を戻してしまったが故

私は生きていたら齢百を越えた老人であり

幽霊として若き頃の快活な紳士として化け出たと

錯誤忘れる錯覚に溶け込んでいった


ここはそんなレトリーを

幻感できる刻のホテル


短き停泊で後退りも

人生の年輪に欠かせない振り向きと眺め

刻の深き美徳と捉えるては

歩く歩幅に疑問を抱いた


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