
祖母の看護婦免状
追記:先日、私の愛する祖母・八重子が、すうっと眠るように、静かに大往生を遂げました。祖母の口癖だった「おかげさんで」を表すかのように、駐車場から溢れかえるほどのご会葬者様に恵まれました。
既に、7月の時点にも面会のために帰省して、親戚中から呆れられるほどお話しできていたので、母から訃報を聞いても、不思議と「お通夜に間に合ってよかった」という気持ちでおりました。
ただ、「大正・昭和・平成、そして令和」と紹介された瞬間、涙が堰を切ったように溢れ出て。既に101歳と1ヶ月になる祖母から、実はこっそりと聞き及んでいた、大昔のこそこそ話があります。
私の拙い文章でよければ、読んであげてくれませんか。
私の祖母・八重子は、昭和19年3月、満州鉄道の関連会社である「華北交通」の小さな附属病院に、看護師(当時の名称は看護婦)として入職したという。
取材した2018年(平成30年)時点でも大切に大切に保管していた、当時の「看護婦免狀」は、現在の看護師免許証(B4)よりもずっと小さな手のひらサイズで、発行も厚生労働省ではなく、自治体だ。

旧姓はかなり珍しい苗字で、万が一にも誰かに迷惑がかかること気にしていたので、伏せさせてもらう。
看護師になったのは、自分の意思よりも、父親の影響が強かったという。「これからの時代は女も手に職をつけなあかん」としきりに言っていたそうだ。
祖母の父がそう思うようになったのは、八重子が生まれた年の大地震がきっかけだった。
1923年
1923年の8月15日、八重子はU家の長女として誕生した。上には兄がふたり。両親はともに京都府の生まれだが、地元を離れて名古屋で暮らしていた。父は計器会社に勤め、母は栄で旅館を経営して生計を立てていたという。
初めての女の子の誕生を喜んだ2週間後、名古屋が揺れた。
のちに「関東大震災」と呼ばれる1923年9月1日の大地震だ。
この地震では、震源からおよそ250km離れた愛知県でも震度4程度の揺れがあったとみられている。*1
相模湾沖と推定される震源地に程近い神奈川・東京の被害は言わずもがな甚大だった。
下の図は、住家の全潰率から震度分布を推定した図だ。

当時は木造家屋が中心だったとはいえ、薄黄色から紫の色が付いている地域では非常に強い揺れと住家全潰が起きている。
また、当時の天候も相まって、地震で全潰しなかった家屋も大規模な火災の被害に遭った。
この様子は、翌日・9月2日付の大阪朝日新聞で「関東の天変地異」「横浜市は死滅の惨状」と衝撃的な見出しとともに扱われた。*2
テレビもネットも無い時代、さらにラジオ放送もまだ本格的な実用化には至っていなかった当時、民衆向けの最速メディアは新聞だった。
その頼みの綱である新聞各社も、交通・電信・電話網が寸断されたうえに、社屋の倒壊や火災などの被害に遭っていた。
記者たちは横浜港に停泊している船や海軍基地の無線を通じて松本・大阪などを経由しつつ情報を集め、発行にこぎつけたという。*2
愛知県の震災対応
愛知県知事に被害状況が伝わったのは、この新聞記事が世間に行き渡るより少し前、9月2日の午前2時だった。*3
3日には救援の派遣や義援金の募集、避難民の受け入れなどを県下に発令、幅広く援助を行なった。
愛知県は、首都圏に最も近い大都市・名古屋を擁する地として、「宿泊救護」の需要が特に高かった。
家屋の倒壊や大火災で住処を失った人々が続々と逃れてきて、9月4日から同月30日までに愛知県下で下車した避難者の数は、で総勢15万7,000人を超えたという。
避来者が連夜連続するので、市はとりあえず名古屋駅前広場に大天幕を張って応急宿舎にあてた。
しかも避来者は日に日に増加して、その収容が容易でないことを耳にし、寺院や教会や富豪などで進んで宿舎の提供方を申し出る者がすこぶる多く、中にはいわゆる貧者の一灯で、一人でも二人でも宿泊せしめたいと申し出る者もあり、これがために収容上わずかも差し支えなきに至ったのみならず、県市の救護活動上多大の便宜を得た。
原本の旧仮名遣い、段落などを一部調整
この「貧者の一灯」すらも要する事態に、八重子の実家である旅館も協力するのは自然なことだった。
しかし、老舗でもなく、女将は産後2週間経ったばかり。通常の切り盛りに加えて、避難者に部屋や食事を無償で提供し続けるのはあまりにも難しく、店を畳まざるを得なくなった。
この旅館は自宅を兼ねていた。店を畳んだからには家を出るしかない。
避難者が増え続ける都市で、家を失った状況で妻と3人の子の安全を守るため、父は勤め先を辞めて故郷に帰る選択をした。
父の思い
男の子2人と、まだ首も座らないような月齢の八重子を抱いて、急ぎ京都府舞鶴市に戻った。一家5人は、父方の実家に住む伯父夫婦に部屋を間借りして生活を再開した。
乳児の八重子を抱えた妻は存分に働くことはままならず、また、折悪く自身も視力を失いつつあり、これまで勤めていた計器会社のような技術職に就くことは難しく、間借りを辞めて新たに家を持つことも叶わなかった。
先に学校を出た兄ふたりは、大工の棟梁のもとに修行へ出した。父譲りの手先の器用さを活かせる仕事でもあった。
そして八重子は、2歳下の妹が尋常小学校を出るまで奉公に出ていた。
当時、地方の女子の進路としては、富裕層は女学校へ進学、それ以外は女中奉公として他家の家事などを担うか、家業の手伝いに就くのがセオリーだった。
八重子の奉公先は、市内の病院だった。これは父の方針だった。
「これからは女も手に職をつける時代だ」と父はことあるごとに言っていたという。
女中奉公ではなく、当時の地方でも女子に門戸が開かれていた看護婦になれば、此度の大震災から連なる閉業や都落ちのような目にも遭うまいと考えたのだろう、と八重子は回想する。
八重子は妹の卒業を待つ間、舞鶴市内の医院へ奉公へ通い、洗濯や掃除、簡単な裁縫などの下働きでわずかながら賃金を得ていた。
しかし、正式な看護婦・産婆資格を得るには、受験資格を得られる学科で勉強する必要がある。*4
姉妹は、舞鶴市を出て、学科がある京都市内の医院に住み込みで働くことなる。八重子12歳、妹の愛子10歳の頃だった。
(続く)