働くことの意義を実感し、いきいきと輝くための一手『石門心学』に学ぶ忠の教育観(中編)~日本経済を復活させるために私たちがするべきこととは?~ー『日本人のこころ』43ー
おはようございます。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すという主題のもと
小学校教諭をさせていただきながら、
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
ついに、衆議院議員総選挙が終結しました。
全体としては、
自民・公明で過半数の議席を守ることができず、
野党の大躍進となりました。
個人的には、
若者向けの政策を訴えてきた国民民主が大きく議席を伸ばしたことは
嬉しいことですが、
新潟では、立民がすべての小選挙区の議席を確保するという
大きな課題が残った形になりました。
私自身、
さらに政治に向けての関心が大きく高まり、
政界進出への思いを大きくした次第であります。
しかし、
まずは足元を固め、
先人の叡智に学ぶことを通して
我が国をどのようにけん引するのかを考えていきたいと思います。
今回もよろしくお願いいたします。
まず、
先人たちが実践し続けた日本古来の
「和の伝統的経営」とは何か?
を考えていきましょう。
1)日本人はいつから経済成長を意識するようになったのか?
実は、
今から約150年前。
「幕末」以降なんです!!
江戸時代を通じて日本人は、
経済成長なんて誰も興味を持っていませんでした。
平安時代から江戸時代までの200年間。
人口が増えた分だけ成長はしましたが、
「経済成長率」はほぼありませんでした。
100年単位、200年単位でみても
経済成長率は数パーセントしか上がっていないそうです。
なぜなら、
「石高制」
つまり、
明治以前の日本では、『お米』が「貨幣」でした。
お米は、時間が経つにつれて価値が下がっていきますから、
「貯金」も「貯蓄」もできませんでした。
いくら稼いでも『お米』ですから、
「使い切らないと損!」だったんですね。
確かに、
災害の時に備えて、「備蓄米」はあったのかもしれませんが、
原則、「使い切ること」がきほんでだったんです!
ところが、
日本人が「本気になって」経済成長を考え始めたのが
嘉永6年。
「ペリー来航」でした。
たった4隻の船が来ただけで、
日本国は手も足も出なくなってしまいました。
そこで、
「勝海舟」さんが将軍に
と建議し、日本国は開国しました。
その時に、勝さんはこんなことも言いました。
つまり、
と。
そして、
明治維新後の日本国は、
勝海舟さんが建議した通りの道を歩んでいくことになります。
そこから、
日本国は猛烈な勢いで経済成長をしていくことになります。
特に、
「絹製品」
「陶磁器」は、
世界最高性能質が良く
さらに値段も適正ということで飛ぶように売れたそうです。
そして、
ペリー来航からわずか半世紀後。。。
大正8年。
国際連盟の常任理事国となり、
「世界5大国」の仲間入りを果たすのです。
経済力、軍事力ともに世界トップ5となりました。
たった4隻の船が来ただけで手も足も出なかった弱小国が、
一気に躍進し「列強」の仲間入りを果たすのです。
しかし、
先の大戦で徹底的に町が破壊され、
大切な人を失い、
インフラが滞り
「世界最貧国」
最も貧しい国へと転落してしまいます。
ところが!!
わずか十数年の間で、
百数十か国をぶち抜いて
一気に「世界第2位」の経済大国へと復活を果たすのです。
なんと!!
弱小国が世界の列強に轟く偉業を2回も成し遂げているんです!!
普通にすごくないですか?!!
1回だったら、
たまたま偶然できただけだと思うかもしれませんが、2回も行っている。
「弱小国」が「経済大国」へと大躍進する。
世界の歴史の中で、
今まで「弱小国」だった国が
世界の「経済大国」に躍進した国はありますか?
じつは、
今のところ
「日本国」だけ
なんです。
では、
なぜ、そのような偉業を成し遂げることができたのでしょうか?
「がんばったから」とか
「日本人は頭がいいし、手先が器用だから」とか
もちろんそれも一つの要因としては考えられますが、
それだけで経済大国になれるほど国際社会は甘くはありません。
では、どのような理由があるのか?
それは、
が関係しているんです!
2)ものづくりに宿る「日本人の精神性」とは?
日本人の「ものづくり」に対する精神性の高さは
ものすごいものがありました。
どのくらいすごいかというと
「見たものは何でも作りたくなっちゃう」
ことなんです!
ペリーが来航する2年前のこと。
イギリスの軍艦 マリーナ号が来日しました。
イギリス軍の狙いは
「軍艦を見せて、脅かして屈服させ、植民地にする」ことでした。
その頃になると
江戸幕府の上層部も
そろそろ大きな船を造船する技術を学ばなければならないと
考えていました。
そして、
日本にマリーナ号がやってくるのです。
マリーナ号の軍人たちは、
「この兵器を見せたら日本人は必ずびびるだろう」
と思っていました。
ところが、
江戸幕府の役人たちは
「いい研究材料がちょうどよく来た!」
と思ったわけです。
そこで、
停船命令を出して、役人たちがマリーナ号に乗り込みました。
意気揚々と日本人に兵器を見せびらかそうとしたその時!
なんと、全員でメモを取り始めたんです!
「あ~!なるほど!こういう構造になっていたのかあ!」
「これは、ちなみに何個あるんですか?」
などと質問したりもして…
びびったのはどちらか?
イギリス人だったんですねえ。
「ヤバい…こいつら、造ろうとしている…」
そう思ったに違いありません。
これまで、イギリスは今回と同じように
圧倒的な軍事力を背景にしてあらゆる国を植民地化してきました。
兵器を見て造ろうと思った人なんて誰もいなかったんですね。
でも、
日本人は違いました。
そして、4年後。。。
造っちゃったんです。。。
日本初の蒸気船を
そして、
今から150年前。
世界最高の造船技術をもっていたのは「オランダ」でした。
でも、
今は「日本国」です。
今から150年前。
世界最高の鉄道技術をもっていたのは「イギリス」でした。
でも、
今は「日本国」です。
今から3000年前。
世界最高の米作りの技術をもっていたのは「中国」でした。
でも、
現在、世界で最もおいしいと言われている米は「日本産」です。
日本人が『本気』になって「ものづくり」をすれば、
とてつもないものをつくることができるんです!!
何と言ったって、
世界で一番最初に『磨製石器』や『土器』を作った民族ですよ。
日本人が「ものづくり精神」を発揮すれば
元祖を凌ぐくらいものすごいものを作るんです!!
先の大戦の後。
中国大陸にいた日本人57万人は
ソ連軍に逮捕され、強制労働させられてしまいます。
これを
「シベリア抑留」といいます。
あまりにもひどい環境で働かされた結果、
5万5000人の日本人が亡くなっています。
当時、ウズベキスタンはソビエト連邦の一部でした。
そのウズベキスタンには、
抑留した日本人がつくったある建造物があります。
それが
「ナヴォイ劇場」です。
当時、ドイツとイタリアも戦争に敗れていたので、
3か国の抑留者で劇場を作りました。
強制的に送られてきたので、
当然、やる気が出るわけもなく
ドイツとイタリアの人たちは怠けてばかりいたそうです。
でも、日本人は違いました。
「自分たちは『日の丸』を背負っているんだ」
「どうせ、帰れないのなら、いいものをみんなでつくろうじゃないか!」
と団結したそうです。
そして、
労働時間が過ぎても残業をして
徹底的に建設作業に打ち込んだそうです。
「強制労働」なのにですよ?
建設中に数十人も亡くなっていたのにですよ?
そして、
立派なものが建設されました。
ところが18年後。
ウズベキスタンで「大地震」が起きます。
ふだん、地震はそうそう起きない場所ですから
ほとんどの建物は耐震構造なんてものはされていないため、
ほぼ壊滅的な状況だったそうです。
見渡す限りがれきの山。
そんなところに
1棟だけ「ほとんど無傷」で残った建物があったというのです。
そうです。
それが
「ナヴォイ劇場」
です。
「日本人」がつくった建物が
「ほとんど無傷」で残り、
しかも!
「避難所」として使われたんですよ!!
それで、現地のウズベキスタン人は腰を抜かして
「自分たちは日本人を見くびっていた。」
「日本人は、手先が器用で、仕上がりが綺麗とか、そんなもんじゃない!」
「日本人の本当のすごさは『目に見えないところ』にまで手抜きがなかった
ことなんです。」
「基礎工事。柱の中。壁の中。日本人の本当のすごさは『目に見えないところ』までこだわっているところなんだ!」
と言ったそうです。
当時、
中国大陸から連れてこられた57万人の日本人の中には、
工兵や建築士、土木技師など様々な人がいました。
ソ連軍から提示された設計図面の
プロの目から見て見つけた粗を
ソ連軍の上司と喧嘩をしてまで設計の変更を求めたというんです。
何度も言いますが、
「強制労働」なのにですよ?
「どうしたらいいものができるか?」
「どうしたらもっとよくなるのか?」
と皆で知恵を出し合って
いいものをつくるためにみんなで努力をしたというのです。
これが
なのです。
今でも、ウズベキスタンの大人たちは、
と言われて教育が行われて
今でも、
「ナヴォイ劇場」はウズベキスタン人から愛されています。
3)先人たちが受け継いできた「和の伝統的経営」とは?
という『精神的気質』を持っています。
一方、
欧米では、
『やりがい』もありますが『お金を稼ぐための手段』
と考える傾向があります。
ビジネスとプライベートは分けて考える。
ビジネスはプライベートを充実させるための「手段」なわけです。
ビジネスよりもプライベートが重要なのです。
なぜなら、
『聖書』に
「仕事」は「罪に対する償い」である。
と書かれているからです。
だから、
欧米社会で
「サービス残業」なんてあり得ません。
そして、
仕事後に飲み会をするときに
仕事の話をすると嫌われてしまいます。
ところが、日本ではどうでしょう。
新橋のガード下でご飯を食べながらどんな話をするのでしょうか?
そうです。
「仕事」の話をするんですよ!
これは、世界の中ではありえない話なんです。
日本には、
ビジネスとプライベートを切り分けて
プライベートのためにビジネスを充実させよう!
なんて考えはありませんでした。
先人たちは、
プライベートはプライベートでもちろん大切。
でも、
ビジネスはビジネスでこれもまた大切にしてきました。
日本人は、「仕事」を通じて『生きがい』を得ようとします。
仕事は何のためにするのでしょうか?
多くの欧米人は、「金のため」と答えるでしょう。
これは、今の日本人にも言えることかもしれません。
普通のことです。
でも、
先人を含め、多くの日本人は、
「この仕事が面白いから」
「この仕事にはやりがいがあるんだ」
「これを作って多くの人を楽しませたい!喜ばせたい!」
「これを作ってたくさんの人を笑顔にしたいんだ!」
のように
を重視します。
日本人には、
という発想があります。
欧米では
もともとボランティアは「貴族」がやるものだったので、
「社会貢献は、自分が成功した後にする」
ように教えられます。
ところが、
日本では
「成功者がボランティアをする」なんて発想はなく、
裕福だろうがなかろうが
「世のため、人のため」を当たり前のように実践しています。
松下電器を創業した松下幸之助さんは、
このように言っています。
「買い手」も
「売り手」も
「従業員」も
みんなが必ず幸せになっているんです。
そして、
「企業は、存続することがすでに社会貢献である。」
とも言っています。
企業はしっかり存続していれば、
企業で働く人の生活が安定するだけではなく、
企業が作り出した商品を使う人の生活も豊かになる。
企業が利益を上げれば、株主にも配当され
納税されれば、国中に行き渡っていくわけです。
また、
本田技研工業を創業した本田宗一郎さんは、
このように言っています。
当時の日本製品は国際競争力がなく、
産業界は政府に輸出振興と輸入制限を頼み込む状況だったのです。
しかし、
これではいずれは世界の自由化の波に飲み込まれるか、
あるいは閉鎖市場として世界の進歩から取り残されるかもしれない。
「良品に国境なし」
本田は技術を高め、世界一の製品を開発すれば、
誰も外国製品を輸入しようとはしないし、
黙っていても輸出は増えるはずだと考えたのです。
そして、
今でも世界に誇るスーパーカブの開発に成功します。
本田さんは、対人の挨拶で次のように語りました。
と。
このように、
「商売は必ず、世のため、人のためになるためにすることである。」
このことを
経済大国へと一気に躍進させた時代の日本人は
大切にして、実践してきました。
「ものづくり」は
頭で作っているようで頭では作っていません。
指先で作っているようで指先では作っていないんです。
では、「どこで」作っているのか?
それは、
です。
「こんなものがあったらいいな」
「ここを工夫したら、みんなの生活がもっと豊かになるかな」
より多くの人を『喜ばせたい』
より多くの人を『楽しませたい』
その『想い』が形となっていくのです。
だから、
日本発祥でなくとも、
日本に取り入れられると「日本っぽい」ものが出来上がるのです。
だから、
子どもが買うような
「15円」のお菓子でも
あんなにクオリティが高いものが出来上がるのです。
このようなお菓子。
アメリカでは絶対に「15円」では買うことはできません。
欧米では、「アニメ」は子どもを対象としたものだったんです。
ところが、
日本でつくられる「アニメ」は
子どもだけではなく、大人も楽しめるものになっていて
『日本文化』として
『世界の芸術』となってしまうのです!
「子ども相手」のものでも一切手を抜かない。
『世のため、人のため』という
日本人の「仕事」に対する『精神性』が生み出したものなのです。
「自分は多くの人のために『何が』できるのか?」
「『世のため、人のため』にできることは何か?」
常に自分に問い続けて、
これからも「仕事」ではなく『志事』を
一つ一つ成し遂げていきたいものですね。
ここまでは、
我が国の先人たちが大切に受け継いでこられた
「和の伝統的経営」について考えてきました。
先ほどお話をさせていただいた
松下電器産業創業者で、経営の神様と尊崇されている松下幸之助さんが
座右の書としたといわれている名著でがありました。
この名著の思想を抜きにして
日本経済や日本企業の基礎力を理解することはできないでしょう。
次回は、300年前に刊行され、
いまもなお多くの名経営者に読み継がれている
『都鄙問答』について考えていきましょう。
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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。
極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。
昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。
その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語と修身教育を廃止させたのです。
戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。
しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。
道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。
「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。
教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。
教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。
教育とは国家戦略。
『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。
「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。
江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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