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未来を担う日本人として学び続けるための一手『物のあはれ』に学ぶ心の教育観(前編)~グローバリズムの先にあるものは?~ー『日本人のこころ』46ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すという主題のもと
小学校教諭をさせていただきながら、
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


いよいよ
令和6年も終わりを迎えようとしています。

皆さんにとって
令和6年はどのような年でしたか?

私は、
「生と死」を大きく考えさせられた年になりました。

人はいつかは必ず亡くなります。
だからこそ、私が生きている間に為すべきことは何か。
これからを生きる息子や娘、子供たちに残したい想いはなにか。

改めて考え、行動し続けていきたいと思います。

さて、
いよいよ1年間かけて取り組んできた
「日本人のこころ」シリーズもいよいよ最終章。


いろいろと悩みましたが、
最終章にふさわしい主題になっていると思います。

ぜひ、
今回もお付き合いください。

よろしくお願いいたします。







1)行き過ぎた「グローバリズム」の弊害




最近
ますますに「グローバリズム」の動きが高まってきています。

「グローバリズム」とは、
簡単に言うと国境を超えて世界を一つの共同体と捉えるような考え方です。

先日、
『Netflix』の日本国内での登録者数が1000万人を超えたという
報道がありました。

私たちは、
グローバリズム企業の便利な恩恵を享受しています。

これは、
Netflixだけではなく、AmazonやGoogleもそうです。
Youtube、Tiktok、iPhone…。

グローバリズム産業に多くの投資をしていますが、
その投資の先に行きつく先はどのような未来でしょう。

グローバリズム産業に投資したお金は当然ですが、

グローバリズム企業に流れ、日本人には還元されません。

つまり、


グローバリズムが進めば進むほど、
日本人はどんどん貧しくなっていく



のです。




では、
いつから「グローバリズム」は始まったのでしょう?

もちろん、古代から影響を受けていますが、

私たちの日常生活において密接に特にかかわってきたのは
おそらく明治時代ではないでしょうか?

明治維新から

やれ西洋の服装を見習おう。

やれ政治のやり方も産業の手法も見習おう。

そのようにして、
日常生活に関するあらゆるものを西洋化してきたわけです。

西洋のものは崇高なもの、素晴らしいものだということで
日本の物は古臭いもの、価値のないものかのように見捨てられていく。

西洋化ばかりに走り、
日本のよいものを進んで取り戻していこうとする努力や取組が
ほとんどなされないようになってしまいました。


人々は金もうけに走り、

他人を追い落とし、

奪い合いの社会のような競争社会。

人々の心が疲弊し廃れる。

そのような社会になってしまいます。

欧米化、西洋化にのめりこんだ結果

国民の内面がすさんでしまい、

私利私欲にまみれたような状態

になってしまいます。

なんだか、今の我が国の状態に似ていませんか?



2)「日本人らしさ」を追究した先人たち




実は、
この状態は江戸時代にもありました。

江戸時代の教育の中心に据えられていたのが儒学でした。

儒学とは中国大陸から入ってきた学問です。

知識偏重はいつの時代も同じで

出世栄達のために儒学を学ぶことに一生懸命で

やがて良識や判断力まで外国頼みになってしまいます。

つまり、

借り物の思想です。


外面や体裁ばかりを気にして
本当に大切な心を見失ってしまったのが今の日本人なのだ。

江戸時代にもこのような我が国の有様を危惧したのが

日本国の学問を築いた国学者でした。




日本という国は、
南や北、または大陸からと
周辺地域からわたってきた人々の寄り合い所帯として始まりました。

人々が持ち寄った多様な価値観が融合し、
風土の中で特異な発達を遂げてきたのです。

長い年月をかけて
我が国特有のものの考え方や価値観ができました。

それが
「大和魂」「大和心」というものです。

言い換えれば、


「日本人のこころ」


です。




不幸なことに「大和魂」「大和心」という言葉は、
日本人でありながら特に知識人を自負する人には徹底的に嫌われています。

魂や心などは強制されたくないということでしょう。

先人たちは、
他の文明を受け入れながらも常に
「日本人らしさとは何か?」という問いに向き合ってきました。


飛鳥時代。

渡来人とどのように付き合っていくのか?を考えたのは聖徳太子でした。


平安時代。

中国大陸からの文化が輸入される中でもっと日本らしい文化をつくるべきだ
と考え、遣唐使廃止をしたのが菅原道真公でした。

そして、
かな文字や文学作品、寝殿造りなどの国風文化が形成されました。


室町・江戸時代。

鉄砲や宣教師など再び海外の影響を受けようとしたときに鎖国を行いました。

そして、
江戸独自の文化が形成されていきました。


このように我が国では、
グローバリズムの影響を受けては、
「日本らしさとは何か?」と立ち止まって考えてきました。

しかし、

明治時代以降はどうでしょう。

西洋文化はすべて正しい。

西洋を見習おうとする動きがあまりにも大きくなりすぎているのではないで
しょうか。

現代。

我が国は食料自給率、森林自給率、エネルギー自給率。

あまりにもグローバル化が進みすぎてもはや鎖国などできるはずもありません。


しかし、
「日本人らしさとは何か?」を見つめなおす必要が
あるのではないでしょうか。




だからこそ、


今回は、


日本人のこころ第12弾


「未来を担う日本人として学び続けるための一手 
『物のあはれ』に学ぶ心の教育観」


という主題でお話をさせていただきます。

よろしくお願いいたします。


次回以降、
くわしくお話をしていきます。


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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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