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未来を担う日本人として学び続けるための一手『物のあわれ』に学ぶ心の教育観(後編)~『うひ山ぶみ』に学ぶ学問の心得とは?~ー『日本人のこころ』48ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すという主題のもと
小学校教諭をさせていただきながら、
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


冬休みに入りましたが、
まだまだ学び続ける日々を送っています。

休みを楽しみつつ、
やるべきことやりたいことをとことん進めていきたいと思います。

さて、
今回は学び続ける上で非常に重要な示唆を与えてくれる
本居先生の学問観について考えていきましょう。

よろしくお願いいたします。




前回は、「国学」について考えてきました。
今回は、
本居先生が書かれた『うひ山ふみ』から
学問の心得について考えていきたいと思います。





1)『うひ山ふみ』とは?




見知らぬ山を初めて登るときに、
何の準備もなく、登山計画も立てずにいたら、
無駄足を踏んだり、遭難してしまう可能性が高くなってしまいます。

山を登る前に、
道標を立てられるようにしたり、
登山に詳しい先生や先輩に前もって登山の秘訣を聞いたりしていたら
遭難や無駄足を踏むことはありません。

勉強や学問も登山と一緒です。

『うひ山ふみ』は、
寛永10(1798)年に、
本居宣長先生が勉強や学問をしようと思い立った
「学問の初心者」向けに学問の方法論を書いたもの
です。


どのように学問をすればよいのか?

学問をするうえで大切なことは何なのか?

日本人として忘れてはならないものは何か?

などなど…。

本居宣長先生の大変貴重な助言がたくさん記されています。

もちろん、
江戸時代と現代とでは、
学習環境も大きく異なるため、全てを活用できるわけではありませんが、
現代にも通じる大切な視点を多く得ることができます。



2)本居先生に学ぶ「学問で大切にしたいこと」とは?




学問の道に入るときにはどのような心構えをもつことが大切
なのでしょうか?

本居先生は、次のように語っています。


学問分野の進むべき方向を向き、
学び方を正しくして、
先々おかしな方向に行かないように、
また学業が早く成就するように、
より多くの実りが得られるように初めからよく準備して学問を始めることが大切である。

同じ方向に力を使ったとしても、
自分に向かない学問分野や学び方では得るものは異なってくる。

しかし、
どのような学問をするのかは他人から押し付けられるべきではない。

大抵は自分のしたいことをすればよいのだ。

たとえ初学者であっても学問をしようとする者は、
「自分はこの学問をやりたいというもの」をもつこと。

また、
人それぞれに好きな分野と嫌いな分野があり、
得意なことと不向きなことがあるので嫌いな分野や不向きなことをしていては、同じように努力しても成果はあまりない。


つまり、


自分がやりたいと考える学問分野をもつこと。

好きな分野をとことん究めること。


この2つが大切だと語っています。




次に、
学問の道に励むときに大切なのはどのようなことでしょうか?

宣長先生はこのように語っています。


要するに学問は、
ひたすら長い年月飽きたり怠けたりしないで頑張ることが重要なのであって、
学び方はどのようなものでもよい。

それほどこだわるべきことではない。

どれほど学び方が良くても、怠けて頑張らなければ成果はない。

また、
人の才能の有無によって、学問の成果も違ってくるが
才能の有無は生まれつきのことなのでどうしようもない。

しかし、
大抵のことは才能がない人でも
怠けずに努めれば成果が上がることもあるものだ。

また学問をする暇がない人も、
思いのほか暇な時間が多い人よりも成果を上がられるものだ。

なので、
才能が乏しいとか
学び始めが遅いとか
忙しいとかで学問を諦めて止まってしまってはいけない。

とにかく努力さえすれば学問はできるものと知っておくべきだ。

諦めたり挫折することが学問をするうえでとてもよくない。


学問で最も大切なことは、
途中でやめたり、諦めたりすることなく
「とにかく続けること」なのだと言っているのです。




さらに、
次のようにも語っています。


すべての学問は、
初めからその志を、高く大きく持って、
奥深く究めてやろうと固く思わなければならない。
この志が弱くては、
学問は進まず飽きて怠けてしまうものだ。



学問を途中でやめたり諦めたり
挫折しないためには、
「志(信念・目標)」を強く持つことが大切ということです。

そのために「ビジョン(抗争や未来像)」を掲げるのです。

志を強く持つことこそ、すべての始まりなのです。

志はその人の人生を変えます。




ほかにも
読書論についても語っています。


すべてこれらの書物を順番を決めて読む必要はない。
本人の都合に合わせて順序に関係なく、
かれこれ読めばよいのだ。

また、
どの書物を読むときも
はじめのうちは片っ端から文書の意味を理解しようとしてはならない。

まず、おおまかにさらっと読んで、
他の書物も読み、あれこれほかの本を読んでから
また最初に書物に返って何度も読んでいけば
初めに理解できなかった内容も次第にわかってくるものだ。


読書をするうえで大切なことは、
最初からすべての内容を理解しようとするのではなく、
さまざまな書物に触れる中でつながりを意識して読んで学ぶということ
なのです。




基本的には学び方はどのようなものでも構わないという
お考えをお持ちの本居先生ですが、
学びの手法を示している記述もあります。


古書の注釈を作れとのことだが、
書物を読む場合、
ただ何となく読む時は、どれほど詳しく見ようと思っても限界があるが、
自分で注釈しようと心がけて読む時には、
どんな書物であっても、特に意識してみるので読み方が厳密になる。
また関連して、他にも役立つことが多い。

したがって、
注釈が完成していなくても、学問にとってとても有益なのだ。

これは注釈に限らず、
何事にしても書きながら読むことを心がけるべきである。


なんとなく学ぶのではなく、
自分の解釈や考えをもちながら学ぶことによって
学問は自分にとって有益なものになるということなのです。



3)志高く学んだ本居先生の思いとは?





また、
国学者として我が国の書物から多くを学んだ
本居先生らしい学問論をが続きます。


世の中に学問の分野はいろいろあるが、
「物学び」とは、わが皇国の学問をいう

そもそも昔から学問といえば、
漢学(中国大陸伝来の学問)のことであるので、
それと区別するために、皇国の学を和学や国学と呼ぶ習わしがあったが、
それはとても悪い呼び名である。

自分の国のことなのだから、
皇国の学は、ただ「学問」と呼び、漢学こそ区別して漢学と呼ぶべきだ。

中国や朝鮮・オランダなどの異国の人がそう呼ぶならわかるが、
自ら我が国のことをそのように呼ぶ理由はない。

皇国のことは、何事であれ
皆自分の国のことなのだから、
わざわざ国の名前を付けて呼ぶべきではない。

しかし、
昔から世の中はすべて漢学を基礎としてきたので万事につけ、
中国のことを自分の国のように感じて、
皇国をかえって外国のように扱っているのは、とても悪いことである。

この事は、
大和魂をしっかりともつための一つのきっかけになるのでまず言っておく。


この先生のお考えは、
現代の社会科における『日本史』という呼び名に対して
違和感を覚える私にとってもとても共感できる考えである。
学ぶからには、誇りをもって学びたいという意欲が本居先生のお言葉からみなぎってきます。




私が「第一に漢意・儒意を心から取り除いて」とひたすら言うのは、
理由なくむやみに、漢意や儒意を憎んでいるからではない。

大きな理由があるから言うのだ。

古の道の教えが明らかでなく、
人々が大きく誤解しているのはどういうわけかといえば
皆、この漢意に心が惑わせていて、それに妨げられているからなのだ。

これは、
千年以上世の中の人の心の底に染みついている病のようなもので
とにかくきれいに除き去るのは難しいものである。

このようなわけなので、
道を知るための要点は、
まず漢意をきれいに除き去るところにあると言うのだ。

これをきれいに除き去らなくては道を会得することはできない。

初学者が、
まず漢意をきれいに除き去って、大和魂を堅くもつことは、
例えば、
武士が戦場に赴くときにまず具足をしっかり備え、
身を固めて出陣するようなものだ。
この身の固めが不十分のまま、神典を読むというのは
甲冑を着用せずに、素肌で戦い、たちまち敵によって手傷を負うようなもので必ず漢意に陥ってしまうだろう。


この現状は、
江戸時代のみならず現代にも言えることだと私は考えます。

過度な西洋化が進み、
脱炭素やジェンダーフリーをはじめとする過度な権利主張など
外国の様々な思惑や思想が蔓延る現代において、

「日本国はどのようなにあるべきか?」

「先人たちが大切にしてきたものは何か?」

を常に見据えて学び続けていかなければなりませんね。




道統といって、
伝来(由緒)していることを大事にして尊び信頼し、
歌も教えも、
ただ伝来の正しい人のみをひらすらに良いものとかたくなに信奉して
伝来のない人のものは、歌も教えも用い難いとして拒んでしまう。

また古の人や歌やその家の先生の歌などは、
良し悪しを考えてみることもなく、
ただ自分の力が及ばぬとして熱心に尊敬するが、
他門の人の歌となるとどれほど良いものであっても、
これを採用せず、心に留めてしようともしない。

すべて自分が学ぶ家の掟を、ただひたすらに神の掟の如く思って、
動くことなく、これを固く守ることのみに懸命になっている。

よって、
その教えは、掟に縛られて、こだわってしまうので
読む歌はすべて、言葉の続け様も、一首の姿も今風になるか
あるいは一様に定まって、悪い癖が多く、その様は品がなく窮屈であり
例えば手足を縛られた者が動きがとれないようにとても苦しく寂しく見える。

少しも豊かで伸びやかなところがないのに
自分では反省せずに、ただそれを良いことと固く思っているのは、
とても頑迷であり、つたなく愚かなことである。

芸能ならば、その技によって伝来を重視する理由もあるだろうが
学問や歌などは、伝来に依存する必要はない。

昔の歌集を見ても
その作者の家柄・伝来には、関わりなく、誰でも広く、良い歌を採用している。

なので、
藤原定家の教えにも
「和歌に師匠なし」とあるのではないか。


これまで本居先生が
詳しく学問の手法を述べてこなかったのは、
一つの絶対的な学び方があるのではなく、またこだわることなく
様々な方法で学ぶことが大切であると考えていたからだと思います。

何事も大切にしたい由緒正しいものがありますが、
絶対的なものとして捉えるのではなく、
柔軟に考えることが大切なのです。




「学問は、ただ年月長く、飽きずに怠けずに、頑張ることが大切なのだ」


「挫折しないためには、志(信念・目標)を強く持つことが重要」


「外国の文化や思想にかぶれて自国の歴史・伝統をないがしろにすることの愚かさ」

『うひやまぶみ』を通じて本居先生は力強く門弟に伝えました。

そして、
何より「大和魂」をもつことの大切さを語っています。

グローバリズムによって
国家の存在意義や伝統文化の在り方が問われている現代だからこそ
忘れてはならない大切な考えが記されているのです。


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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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