【映画評】「NOPE/ノープ」(2022) スペクタクル批判の特撮

「NOPE/ノープ」(ジョーダン・ピール、2022)

評価:☆☆☆☆★

これがどういう映画かといえば……

要するにアメリカ版『ウルトラQ』

 要するに、アメリカ版「シン・ウルトラQ」だ。空飛ぶ謎の物体は「バルンガ」、猿の反逆は「五郎とゴロー」、人気のない遊園地は「2020年の挑戦」である。メイン・テーマに据えられている黒人差別についての問題意識は、ウルトラシリーズの脚本家、金城哲夫や上原正三が抱えていた沖縄についての問題意識と通じている。
 また、「NOPE」では、もうひとつの大きいテーマとして、「スペクタクル批判」(メディア社会批判)的な問題意識が前景化されているが、これも、『ウルトラセブン』の「第四惑星の悪夢」や『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣チャンネル」などで取り上げられたテーマである。直接の影響関係があるのかどうかはわからないが、「NOPE」は、結果的に、特撮の伝統を感じさせる作品だ。モンスターの視覚的なインパクトを通じて、社会が「異形のもの」にどう向き合うべきか、一つの型を提示する――というのが特撮というジャンルの特性だが、この特性は、マイノリティやメディア社会についての問題意識と相性が良い。
 ただし、こうした問題意識は、特撮の枠内で「特撮」というもの自体に向けられる、「自己批判」的な態度とむしろ結びつきやすい。

特撮の自己批判

 例えば、ウルトラマンは毎回怪獣と戦い勝利するが、見た目が不気味だからといって、問答無用で敵を倒すのが本当に正しいことなのだろうか。特撮番組というのは、不気味な怪物を倒してお手軽なカタルシスを供給する装置でしかないのではないか。自分たちが作っているのは、ひょっとすると弱いものいじめのショーなのか――こんな具合のスタッフの葛藤が反映されたエピソードこそ、今日、ウルトラシリーズで最も評価されている部分である。「自己批判」こそがジャンルを豊穣にするわけだ。
 だが、逆に言えば、スタッフが葛藤すればするほど、「怪獣退治」のショーの面白さは増大していくことになる。
 つまり、スペクタクルに反抗すればするほど、「反抗しているポーズ」というスペクタクル商品を充実させてしまう悪循環があるわけだ。これはエンターテインメント産業に必ず伴うジレンマであり、ハリウッドでも事情は全く同じである。
 もちろん、エンターテインメントを成立させるには、どこかで折り合いをつけ、悪循環を断ち切らなければならない。だが、どれだけ上手に「スペクタクル批判」を演じても「本物」にはなれないことについて、エンターテインメント産業の側としては、言い訳や免罪符がほしいところである。
 そして、マイノリティ問題は、このような免罪符として扱われることが多い。

免罪符としてのマイノリティ問題

 どれだけ映画の中で切実に社会問題を取り上げても、観客は、映画が終われば普段の生活に戻るだけである。映画は絶対に、「一時的な娯楽」以上のものにはなれない。つまり映画は、現実社会と接点を持たない「架空」のものである。
 だが、マイノリティ問題という補助線が引かれるとき、「架空」はにわかに現実味を帯びていく。監督がマイノリティ当事者であるという事実、画面にマイノリティ当事者が登場するという事実――特に、黒人やアジア人や身体障害者など、視覚的インパクトを伴いやすいマイノリティが登場するという事実――、そうした「事実」が、スペクタクル映画がけして観客に与えることのできない「現実感」の代替品として、スペクタクル産業の側から、観客へと差し出されるのである。――まるで、精巧なミニチュアの破壊や、インパクトある怪獣の造形が、「現実感」の代替品として、特撮番組の鑑賞者に差し出されるかのように。
 「事実」は、「架空」を正当化する道具として便利である。だが、そのような道具として扱われるとき、「事実」の現実らしさは、すでに失われているはずだ。

「スペクタクル批判」と「マイノリティ問題」のマッチポンプ

 「NOPE」の劇中で、最も監督の悪意を感じるのは、安全地帯からUFOショーを眺めていた観客たちがUFOに吸い込まれていく場面だろう。スクリーン上で阿鼻叫喚の地獄へとさらわれる人々は、そのまま、休日の息抜きに「NOPE」を観に来た観客たちの姿にほかならない。映画の観客からすれば、自分たちがそのまま殺されていく映像を見せられるようなものだ。実に嫌な気分にさせられる。
 こうした描写から監督のメッセージを受け取るのは簡単だ。娯楽を、娯楽として受動的に消費することの悪を自覚せよ。君たちにとっても、「問題」は他人事ではないのだ。君たちは、スペクタクルをぬくぬくと消費することで、誰かを搾取・抑圧する構造に加担しているのではないか?(特に白人)。
 ここでは、スペクタクルに対置すべき「事実」として、マイノリティが抑圧される現実が、いわば特権化されている。馬、チンパンジー、そしてUFOという、「見世物(スペクタクル)」として消費されてきたものたちが反乱することは露骨なメタファーだ。スペクタクルに反抗することで本当はたどり着けるはずの、スペクタクルの「外部」にあるべき現実がどういうものなのか、答えはあらかじめ、スペクタクルの枠内に用意されているのである。
 もちろん、「NOPE」のようなスペクタクル映画は、どれだけ「スペクタクル批判」を演じても「外部」にたどり着くことができない。一時的に観客を嫌な気分にさせても、最後は、エンターテインメント作品として観客に楽しんでもらわなければならない。監督は、「スペクタクル批判」というスペクタクル産業の伝統に、皮肉な視点を持ちながらも、徹しているのだろう。
 その意味で「NOPE」は、シニカルな視点を持つ冗談映画、またはバカ映画だ。面白いか面白くないかで言えば、本作は非常に面白いエンターテインメント作品である。
 とはいえ、「面白いエンターテインメント」の題材となることが「社会問題」にとって重要であるかのように言われるときには、あくまで警戒するべきだろう。フィクションにとって重要かどうかが現実の価値をはかる尺度なのだとすれば、現実はすでに、「現実味」を失っているのである。

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