【映画評】「ザ・フライ」(1986) 同情しやすいバケモノ
「ザ・フライ」(デヴィッド・クローネンバーグ、1986)
評価:☆☆☆☆★
キチガイのふりをしているのかと思いきや、実は想像以上に「本物」だった監督――それが、私にとってのクローネンバーグという監督だ。あるいは、アウトサイダーの世界を、「インサイド」の境界までにじり寄って垣間見ることのできる作家、というべきだろうか。
「ザ・フライ」の物語はシンプルだ。
天才科学者がハエと合体してしまった!
――以上である。
他には特に何も起こらない映画である。ハエ男に変身する天才科学者ブランドルはやや独善的なところを見せるが、善悪の激しい対立があるわけではないし、ブランドルの恋人は、最後まで、醜く姿を変えてしまったブランドルになんとか寄り添おうとする。映画に登場するモンスターとしては幸福な部類だろう。
このシンプルなストーリーラインに、重要なテーマが凝縮されている。ずばり、「人類を超越しようとする者は、周囲から見ると哀れ」というテーマである。
人類の頂点を突き抜け、さらなる高みを目指すということは、要するに、社会的現実から放逐されるということだ。それは、常識的な基準で言う「最底辺」へと突き落とされ、更に下へ下へと潜り続けることにほかならない。上昇するためには徹底して下降しなければならない、というパラドックスが、「アウトサイド」を志す者にはつきまとう。
だからこそブランドルは、早口でまくし立てながら砂糖を貪り食い、どう見てもアッパー系ドラッグのジャンキーとしか思えない醜態を晒し、バーで腕相撲して娼婦を横取りするというちっぽけな勝利に躍起になった挙句、醜い巨大ハエに変身しなければならなかった。とても「超人」がやることとは思えないが、これこそ「超人になる」ということの実態だ。
この作品は、アウトサイダーの道を歩み始め、後戻りできなくなった者の悲哀を描いている。ドラッグのように有無を言わさない強大な力に体を蝕まれ、(ブランドルによれば「政治のない」)昆虫たちの現実へと追いやられる者の悲哀――だが、それは厳密には、アウトサイダーの悲哀というより、「これからアウトサイダーにならざるを得ないインサイダー」の悲哀なのかもしれない。ブランドルが、自分が人間であった証として子供を残したがることは、最たるものだろう。ブランドルの悲哀は、あくまで、人間ではなくなっていく過程で(抜け落ちる歯のように)捨てられていく人間性を通じて描かれる。「モンスターの悲劇」は、あくまで人間的な悲劇へと翻訳されているのである。
厳しい言い方をすれば、本作は、「人間的ではない悲劇」に到達できなかったモンスター映画とも言える。「キチガイのふり」に見えてしまうクローネンバーグ作品の特徴は、こうしたところだ。