自分の想いを自分の作品で伝えることに専念したい
初めて自分の書いた原稿が活字になったのは、中学時代だった。
当時、通信教育を受講していて、毎月送られてくる雑誌に自分の勉強法を投稿したら掲載されたのだ。
自分の原稿をまったく知らない誰かが読むということにワクワクし、送られてきた500円の図書券も勲章のように誇らしかった。
続いて高校時代、新聞の投書欄に掲載された。
韓国人の名は韓国読みするようになったのに、中国人の名はなぜ日本読みを続けるのか、といった投書だ。
ニュースで〈キン・ダイチュウ〉と読んでいた〈金大中〉を〈キム・デジュン〉と読むようになりだした頃だった。
なぜ〈鄧小平〉は〈トン・シャオピン〉にならず〈トウ・ショウヘイ〉のままなのかと意見した。
定額小為替で送られてきた原稿料は1500円、これも嬉しかった。
***
仕事としての初原稿は大学時代、バイト先の編集プロダクションで。
そこが編集を請け負っていた小中学校の養護教諭向け雑誌で、身体にまつわる数字をテーマにした連載を担当することになり、本文は自分が書き、イラストはプロのイラストレーターに描いてもらった。
1993年4月号に初めて書いた記事はこれだ。
少しの驚きを大切にし、読んで「へぇ!」となる記事を目指した。
今のnoteに寄せる原稿と似ているかもしれない。
毎号4ページだから原稿も4本、原稿料は毎月5000円だった。
最初は無署名だったが、3回目からは名前も出て責任も負うように。
この仕事は、大学を出て東京の出版社に就職してからも続け、1995年3月号まで書いた。
実はこの連載を始める前は、同じ雑誌の「立体ポスター」の担当だった。
立体ポスターとは、保健室を訪れた児童生徒に季節の保健メッセージを伝えるためのもので、手近な紙や糸で養護教諭が作る簡単な工作だ。
僕がラフを作り、イラストレーターが仕上げた。
のちに「からだの数字」でもお世話になるイラストレーターは、僕より少しだけお姉さんのかわいい人で、毎月の二人三脚はドキドキだった。
僕の描いたラフは手元には残っていないが、初めて案を出した1992年8月号の「立体ポスター」はこれだ。
浮き輪の少年を手で動かせるようにしているが、このような動く要素を毎回どこかに必ず採り入れるようにした。
作って飾って終わりにはしたくなかったのだ。
全国でいったい何名の先生がこれを実際に作ってくれるのか不安だったが、毎月の読者アンケートで好評だと聞かされ、ホッと胸をなで下ろした。
***
私的な投稿も商業原稿も、そして文章も工作もやっぱり大好き。
これからも、自分の想いを自分の作品で伝えることに専念したい。
(2021/10/10記)