アラフィフ、なるほど。
あれだけ「一人の時間が欲しいよぉぉぉ」と叫び続けてきた子育て真っ盛りの日々もいよいよ終盤を迎え、ようやくやってきたアラフィフの静かな時間。小さかった子どもたちは来年には大学生と中学三年生となる予定で、上娘は我が家を離れて下宿するようで、ますます静かな時間が増えそうな予感。
私も気づけばアラフィフ。
そんなアラフィフな私、書くのも躊躇われるぐらい情けない話なのだが、一人の時間が一番苦手になってしまった。
きっかけは昨年の10月の大回転めまいをきっかけに体調が一気に悪化したこと。家族が誰もおらず、誰も助けてくれない空間で救急車を呼ぼうかと迷うほどの激しいめまいに襲われ、私はすっかり一人の空間が苦手になってしまった。
あの大回転めまいから8ヶ月。回転するめまいの発作は起きていないけれど、始終身体が不安定に感じる浮動性のめまいに悩まされており、それを誤魔化し誤魔化し仕事や家事をしている状態。安定剤やら気分安定薬やらも服用しながらなんとか生活を回している。
めまいをきっかけになし崩し的に他の部分の調子も崩してしまい、行かなきゃいけない病院も増えた。あれだけ病院知らずだった私が、毎月わっせわっせと病院に通っている。
そうこうしているうちに、私以外の家族が遠方に出かけていて家に一人取り残されると、心細さのあまりワンワン声を出して泣いてしまうようになった。
なんということだろう。
自分が結婚するとき、私もオットも両家の親の執着に悩まされ、「子どもに執着しない独立した人生をおくろうね!自分の人生を楽しもうね!」と何度もオットと約束をした。そのためにどうしたらいいか、夫婦で常に考えてきた。私が常に仕事に邁進していたのも、子どもが出ていくときに「お母さんには仕事があるから大丈夫。寂しくなんてないわよっ」とタンカを切るためであった。
それがどうしたことだろう。家族がいないと泣いてしまうのである。これでは子どもに執着して「あそこが悪い、ここが悪い」とメソメソしていた自分の親と同じではないか。
とても情けなかったけれども、けれども私は「その年にならないと分からないこともある」ということを学んだのであった。それでも私は自らを律して、子どもが家を出ていくときは爽やかに送り出そうとは思っている。若い頃にしたオットとの約束は、やはりきちんと果たさねばなるまい。
しかし、変わっていく身体(恐らく私の場合は更年期障害もあるだろう)への恐怖と不快な症状に悩まされながら、ワイワイとにぎやかだった子育てが終わっていくということはこんなにも心細いものかと、アラフィフの私は衝撃的な想いでいる。
神様とはなんと残酷なことか。身体が変わり弱っていくときに、寂しく一人の時間を増やしていくとは。
もうこうなったら寂しくてメソメソしてしまう自分も「アラフィフの自分…なるほど!」と学びの一つとして加えておいて、これからはそんな寂しさを克服していくためには何が有効かということを建設的に考えていく時間に使っていこうと思う。
そうして、結婚式のときにグズグズ言ったりブチ切れたりしてきた両家の親の気持ちも、少し汲んでやろう、許してやろう、という気持ちにもなった。
これも学びである。