「アフターサン aftersun」クィア・リーディングを通してわかったこと
*この記事はネタバレを含みます。
私の考察の軌跡を記録したものですので冗長な点はご理解ください。
ラストシーンの考察だけに興味ある方は「三つの根源と死の真相」「クラブシーンの意味」辺りを読んで頂ければ良いかと思います。
第一層 映像
映画「Aftersun アフターサン」を観ました。
主演のポール・メスカルがアカデミーにノミネートされ、作品自体も評価が高いのは知っていたのですが(各映画賞で122ノミネート、33受賞)、ちょっと二の足を踏んで観れていなかった。どこか見る前から暗雲立ち込める不穏な雰囲気を感じ取ってしまって(実際はトルコのリゾート地のキラキラ輝く明るい空の下が舞台なんですけどね)、凄く情緒がやられてしまいそうな怖さがあったから。
しかし今回、ポール・メスカルのことを詳しく知りたくて観ることに。
で、実際観てみたら…なるほど、絶賛されていることに納得の映画でした。
しかし!この映画、一回の視聴だと中々理解できない。単なる”娘と父のひと夏の思い出”を描いた作品のように観れなくもない(さすがに随所で挿入される不穏な場面のせいで大抵の人は”何かある”とは気付くとは思いますが…)私も一回目で全体像の輪郭を捉えることはできつつも、疑問符も多く頭の中に残りました。
疑問点を解き明かすために何度も観直して考察すれば良いのでしょうが、そこはネットの誘惑には負けてしまうわけで😅、考察を探し、疑問点をある程度明確にして再視聴してみると、物凄く細部にまでこだわって作られていることがわかってきます。何気ない父娘の会話でしかないと思っていたものが、全く違う意味合いを帯びているor含まれていることに気付き、感情がグワングワンと揺さぶられるのです。
第二層 心情
*ここからネタバレになるので、未視聴の方や、ネタバレされたくない方はご自分で判断してください。
この映画を観て思ったのは、凄く重層的な作品だなと。だからこの記事内の章タイトルも層で表してみました。
大きくは三層構造。
映画の一番上、表層の部分、つまり視覚的に見えてる部分を第一層。父と娘のひと夏の思い出を表した映像部分だとします。
しかし、その下に第二層。登場人物の心理を表す層がある。この層は特に説明が無いので(登場人物も自身の心情を吐露したりしない)、与えられた情報を頼りに観客が想像力で作り上げる層となる。
さらにその第二層の下に第三層。それは登場人物達がなぜそんな心情になっているかという原因&根源と考えられる層です。それについては次の章で語るとして…。
まずは第二層。父親カラムの心情は、娘に隠そうとしているが、深刻な鬱に苦しんでおり、このトルコでのバカンスは娘と過ごす最後の時間だった…ということが読みとれる構成になっています。
また並行する娘ソフィーの心情としては、思春期に差し掛かり、性や自身のセクシュアリティに関する目覚めなど、少女の精神的成長を描いている。
さらには、それらをメタ視線で見つめる大人になったソフィーの心情も、全く説明はないが推測させる構造になっている。
そのカラムが”鬱だった”という考察、説明はコチラの記事が↓ズラ~っと書いてくださっているので、確認したい方はどうぞ!
ただ、劇中でカラムが実際に、いつ、どこで、どんな風に亡くなったかは一切描写されないし言及もされない。考察の殆どがカラムはバカンス後に自殺したのだろうと推測していますが、大どんでん返しで「生きてました~!!」と続編作ろうと思えば作れる(絶対作られないけど😅)ぐらい明確な描写はなかったと思います。
構成、撮影、編集の妙
映画評論家の森直人氏がシャーロット・ウェルズ監督にインタビューしている動画。
動画内で語られていますが、この映画は、主人公ソフィーが父の亡くなったであろう歳(31歳)から、過去を振り返るという形をとっていて、
➀:11歳の時に撮ったビデオカメラ映像
②:当時のソフィーの記憶
③:➀と②の間を埋める31歳ソフィーの想像力
という3つの視点から構成されている。
この3つの視点の構成が物凄く絶妙。
絶妙に切り取り、絶妙に混在させ、絶妙に推移させている。
とくにビデオカメラ映像による様々な演出が秀逸だなと感じました。
例えば登場人物の心理を表現する小道具的役割。はしゃいで手ブレしまくり=撮影者のソフィーの無垢で陽気な心情が表れている…と思ったら、カラムから撮影を拒否されたことで手ブレから固定画面に変化=ソフィーの心も固まってる感じが伝わってくるようになっていたり。
または画面の粗さやボヤケ加減とソフィーの記憶の不鮮明さを呼応させているような演出。記録媒体と言え一部の切り抜きだったり、記憶も不鮮明だったり主観によって影響を受けていたり、そんな真実の曖昧さを画面に落とし込んでいるかのようでした。
あと画面の中に写り込んでいる物、例えばカラムの瞑想や太極拳に関する本。それらはおそらく少女時代のソフィーも気付いていなかった物。それを観客である私たちが映画の画面を通して知ると同時に、映画の中では大人ソフィーがそのビデオ映像を通して気づいたのだろうと想像できる作りにもなっている。
素材の配置と映像での切り取り方が物凄く考え込まれているので、ワンフレームごとに意味ありそう、いやあるに違いない…と思わせてくれる。ある意味全く油断できないというか、どの場面も見過ごせない、何度見ても発見がある映画と言える。
あと、視点ごとの明度や色調もこだわって意味を持たせていたように思う。ソフィーは暖色、カラムは寒色のイメージで、ビデオカメラ映像はかなり明るい→記憶シーンは明暗混在→ソフィーの想像してるカラム一人のシーンは暗い場面が多い…という感じ。
この作品の素晴らしさは他にも沢山あると思いますが、おそらく多くの方々が語り尽くしていると思うので、私は私のテーマに集中しますw。
Ambiguity 曖昧さ
とにかくこの映画、いろんな素材を監督の絶妙な匙加減で配置してるだけで何一つ確固とした答えらしいものは提示されない。いろんなものが曖昧なのです。”曖昧”がこの映画のサブ・テーマと言っていいほど。
散りばめられた素材、その点と点を、その間の余白部分を、観客側が、31歳のソフィー同様”想像力”で埋めることで完成する映画になっている。
インタビュー動画やインタビュー記事を読んでも、ウェルズ監督は明白な回答は避け、観客それぞれの解釈に任せますということを貫いている様子。
↑この記事でもこう言ってます。
理解するためにはある程度の知性も必要ですが、とにかく想像力が必要とされる作品。
空白はいっぱいあって、それをどのように埋めるか…言い換えれば、想像力をもってその空白を如何様に埋めてもいいとも取れるし(←拡大解釈w)、埋め方次第でいくらでも作品に深さが出るとも言える。
以上のことから、登場人物の心情を表した第二層のさらに下、その心情の原因・由来となる第三層にまで想像力を発揮させて潜っていくことで、よりこの作品の深さに迫りたいと思います。
ここでその第三層に迫る入り口として、この作品にあるクィア・コーディング(LGBTQを連想させる文脈)に私は目を付けました。自称ゲイムービー愛好家としては無視できないほど散りばめられていましたから(笑)。
先ほどのインタビュー動画で森直人氏が、私のまさに訊いて貰いたいところを率直に監督に質問してくださっていました。それは「父カラムの鬱は彼のセクシュアリティが原因なのか?」と。
父カラムが鬱で苦しんでいるというのはほぼ全ての考察で語られています。しかし、なぜ鬱になっているのか?そこまで掘り下げた考察は余りない。しかし映画全編を通して”父カラムはゲイ(クィア)だったのでは?”というのは伝わるようで、その部分をサラッと指摘しているものはいくつかありました。ただそこの深掘りはあまりない。私はもっと”そこ”を知りたい派。そこを掘り下げることで見えてくる何かがあると思うからです。
上記動画において、ウェルズ監督はカラム=ゲイ説は当初考慮したとは言いつつも、そういうわけではない…的な、否定とも取れるし、そういう意図はあるけどそこまで明確にしたくないとも取れる、絶妙で曖昧な回答をしています。これだけクィア・コーディングを散りばめているのに、なぜなのか?
ということで、カラムの鬱の原因、落ち込むことの源になる層=第三層目を、カラム=ゲイ(クィア)だと仮定して、ゲイ(クィア)・リーディング(クィア・コーディングを読み取っていくこと)しながら考察を深めてみたいと思います。
第三層 根源
ゲイ(クィア)・リーディングする前に2点。
ひとつは、これはカラム=ゲイ説を補強したい人にとっては意味のある事かもしれませんが、そう思わない、または曖昧なままでいいという方には全く意味のない考察だということ。そこは個人の選択に委ねられていることが大前提。私はこの考えを補強したいので深掘りしているにすぎません。
二つめは、カラムのセクシュアリテイ自体も極めて曖昧で確定は不可能だということ。クィアというゲイ、バイ、ノンバイナリーなどすべてを包括する呼称がたぶん適切。(記事内での”クィア””ゲイ”の使い分けが厳密でない場合もあると思います。一応男性同性愛の場合はゲイ。LGBTQの総称としてクィアと言う感じで使用しています。多少の誤用はお容赦ください)
クィア・リーディングに関しては、日本より海外の方が進んでいる印象です。クィア文化に対する理解も進みオープンな議論も盛んになってきていると感じます。よって皆さん細かい事象にも目ざとく、深読みしていることが多いので、まずはそちらを参照したいと思います。
ということで、まずは海外掲示板 reddit の「Aftersun - Queer-reading」から主だったものを挙げていきます。
まずは自身もクィアであるというスレッド主による指摘点
疎外感
”カラムが故郷において決して馴染めなかったと言うこと→継続的な疎外感はユニバーサルなクィアな経験である”
”クィアQueer”という言葉自体に”変わり者”的意味合いがあるので、疎外感があるのは当然。ただそれがセクシュアリティによるのか、それとも他の障害等によるものかはわからないので少々強引な考察だとは思う。しかし可能性としてそういう傾向があることは十分考えられる。
(セクシュアリティへの)肯定願望
”カラムがソフィーに、何でも自分に話して欲しい、相談して欲しい、君は何にでもなれる、なりたい自分になれる…と強く主張する→自分のセクシュアリティをオープンに出来なかった苦悩とそれを娘には味わってほしくないという願望の表れ”
これも同様に、苦悩があったのは確かだろうけども、それがセクシュアリティによるものかは何とも言えない。ただ、ソフィーが男の子とキスしたことをカラムに話した後にこのシーンになる流れなので、無意識にセクシュアリテイと繋がるように計算されて作られているようには思う。
「Losing My Religion」
”REMの「Losing My Religion」 はとてもクィアの要素を読み取れる歌。将来クィアとして生きているソフィーが公衆の面前で堂々とクィアを連想させる歌を歌い、それとは対照的に歌うことを拒否したカラム。つまり彼がクローゼットから出れなかったクィアということを表している”
REMのリードボーカルであるMichael Stipeマイケル・スタイプも2008年にカミングアウトしたゲイ。「Losing My Religion」は報われない愛、一方通行の愛について書かれている(←同性愛恋愛の典型的な捉えられ方)。作詞もマイケル・スタイプ。映画でこの曲を使用するということ、さらにその使われ方を鑑みるに、クィア・コーディングの意味合いはかなり強いと思われます。
少年達のキス
”この映画で最も特筆すべき(クィアを象徴する)シーンは二人の少年が隠れてキスをしていたシーン。ソフィーは批判的でなく好奇心をもって見ている。この二人が”隠れて”キスしているというのが、カラムがセクシュアリティを隠しているということを示唆しているのではないか”
このシーンの挿入はもの凄くクィア・コーディングとしての意味があるのは間違いない(なぜなら父娘の話にフォーカスするなら必要のないシーンだから)。私もこの解釈に同意です。そしてこのシーンに続くのがカラムが独りで夜の海に入っていくシーン。ここの対比も凄く意味深。監督の強い意図、メッセージを感じます。
さらには、このキスしていた二人、ソフィーが昼間に遊んでもらっていた男女グループのうちの男子二人でした。ここにもまた、仲間内にも”秘密にしている”というセクシュアリティの秘匿を強調する要素がある気がします。
面白いことに彼らはカラムとソフィーとの中間世代に当たる存在。カラム=絶対秘密にしなければいけない→少年二人=物陰に隠れて身内にバレなけりゃOK程度の秘匿加減→ソフィー=おそらくセクシュアリティも完全オープンだからこそ同性パートナーと子供がいる。
このシーンにはもう一つ重要な意味合いもある。それはソフィーが自身のセクシュアリティを意識しだす、確立へと進み始める最初の記憶だろうということ。ゲームしていた男の子とのキス=なんだかトキメかなかった→同性同士のキスを目撃。これによって自身がクィアであると考えるきっかけになったであろうと想像できる重要な場面。
スレッドのその他の指摘
「Under Pressure」
”David Bowie/Queen「Under Pressure アンダープレッシャー」でカラムとソフィーが踊るシーン。デビッド・ボウイとフレディ・マーキュリーという2大ゲイ・アイコン。”ラストダンス”を繰り返す歌詞=二人の最後のダンスになることを示唆。Under Pressure=カラムが抑鬱状態に陥ってることを間接的に(ほぼそのままだけど)表現している”
この曲の歌詞を見てみましたが、歌詞自体には特にクィア的な要素があるようには感じませんでした。ただ、カラムがクローゼットのゲイだと示唆するようなクイア・コーディングが映画終盤まで続いたところに「some good friends screamin', "Let me out"」(出してくれと叫んでる)という歌詞が”カミングアウトさせてくれ”というダブル・ミーニングがあるように聞こえるように引用している気はしました。監督の選曲、曲挿入の巧みさを考えると、そこに意図はあるように感じます。
「Tender」by blur
この曲もこの映画で印象的に使われる曲のひとつ。
歌詞自体にはクィア的要素はこれと言ってありません。どちらかと言うと鬱に焦点を当てて歌詞を読んでみると納得できるような歌詞。
Tender is the day the demons go away
その悪魔たち(=鬱、希死念慮)がどこかに行く日
Lord, I need to find someone who can heal my mind
神よ、僕の心を癒してくれる誰かを見つけないといけないんだ
Get through it
なんとかやり過ごさないと
I'm screwing up my life
僕は人生をダメにしているんだ
ではBlurというバンドがクィアなバンドかと言うとそうでもない。
ベーシストであるAlex JamesからBJ(フェラ)を提案されたことがあるとProfessor Greenというラッパーが本に書いているという話はあるようですが、先述の二組ほどゲイアイコンと言うイメージはない。ボーカル&フロントマンのデイモンがゲイではないですし。
ただ、彼らの代表曲である「Girls & Boys」のサビ部分の歌詞が「女の子になりたい男の子を好きな男の子を欲しい女の子…」となっていて、トランスジェンダー?ホモセクシュアル?ヘテロセクシュアル?バイセクシュアル?パンセクシュアル?もう何のセクシュアリティのこと言ってるのか分からない!!という感じ😅。これがクィアな人達に「自分たちのことを歌っているんだ!」と解釈され、クィアのアンセム的に捉えられてるという一面があるのだそうです。
そして彼らはインタビューなどでも、クィアのファンベースに感謝している等の好意的な発言などもしているようで、クィアのアライ(理解者・味方)と捉えられている傾向もあるようです。
ビジネス”パートナー”?
”ソフィーからクレアと言う女性とどうなったかを訊かれ、彼女は元カレと復縁し既に無関係だと説明。その後、クレアとやろうとしていたカフェの話はなくなり”キース”と言う男性と新しいことをしようと考えていると言う(流れ的にビジネスパートナー?)。そして彼とロンドン郊外に家を借りる予定で、ソフィーが来た時に泊まる部屋もあるよと。ビジネスパートナーと生活を共にするとは少し変→ロマンチックなパートナーでは?”
これに関しては”お金が無いからルームシェア”と考えられなくもない。ただ、ソフィーの部屋も用意しておく=部屋数に余裕があるということになる。金持ちのキースを頼って居候するならソフィーの部屋を用意するということは不自然。ロマンティックで同等のパートナーとしてなら部屋を用意するということも筋が通る話かと。
インストラクターとの会話
ダイビングのインストラクターとの会話から、カラムはインストラクターに明らかにFlirtingしている(モーションを掛けている)という意見がありました。その根拠として、インストラクターが各地を彷徨うライフスタイルをしてきたと言っていたから。これをクィア・リーディングすると、ゲイの男性は家庭をもって定住する伝統的なライフスタイルを避ける傾向があるからという解釈になるのだそう。なぜならそれは彼らの理想の形ではなく、それに従っていない彼らはそのコミュニティで浮いてしまうから。なので定住せず自由を求めて移動するライフスタイルを選びがちになる。(海外ではゲイが就くことが多い)フライトアテンダントや、牧師(あちこちの教会に派遣されるし独身でいても怪しまれない)、俳優など。
私はドキュメンタリーで放送された時に観たのですが、今回映画となった「94歳のゲイ」。ここでもこんな風に語られていました。
現在では多少の変化はあるかもしれませんが、数十年前まではこれがユニバーサルな傾向だったのは間違いなかったということでしょう。
よって、カラムはインストラクターの話を聞いて、「アッ?お仲間かな?」と考え、積極的に会話をしていた…ということのようです。
あれをFlirtingと言えるかは意見の分かれるところだと思います。確かにそういう風に思えばそう見えなくもない。何しろカラムはソフィー以外とコミュニ―ケーションを取っている描写はほぼ皆無。そんな中でインストラクターとの会話シーンが際立っていることは明らかです。
さらに振り返ってみると、そもそもソフィー以外の女性と絡んでいるシーンも皆無。インストラクター以外ではビリヤードで対戦した男子達と絨毯屋のおじさんくらい。
さらに私がもう一つ気になったのは、ソフィーを誘ってウォーターポロ(水球?)をしようと強引に誘う場面。誘った割にソフィーはほったらかし。その時のカラムはと言うと、水球やってる男達(水球と言えば筋骨隆々のイメージ)に囲まれてプレーに(男達に?)夢中になってる。画面はわざとカラムの顔が映らないようなカットになってましたが…たぶん満面の笑みだったのでは(苦笑)。
監督の言葉
掲示板や関連記事で頻繁に引用されていた監督の言葉に、
「私の登場人物たちはいつだってデフォルトでクィアになるだろう」
「私が紡ぎたいと興味を持てる物語とはこの世界における私の経験です」
というのがあるそうです。
大元がどこでの発言かは不明なのですが、このLAタイムズの記事でも引用されているので本人の弁であるのは確かでしょう。
ということは、登場人物たちはクィアと考えて差し支えないわけです。カラムが…とは言ってませんが、ほぼ答えを言っているも同然。
そして”私の経験”と言う部分。ウェルズ監督のことをクィアの監督と紹介してる記事がいくつかある。
(見た目で判断するのは申し訳ないけど、クィア(レズビアン)な雰囲気だなとは思う。ただ彼女がクィアであることを公表しているという記事は探しましたが決定的な記事は見当たらない。監督は自身のことも曖昧に貫いているのかもしれません)
映画の中で登場人物が経験することは、監督自身の経験に基づいている可能性が高い。ということは、登場人物の経験=クィアな人物の経験と解釈しても、これまた差し支えないということになりそうです。
この映画のプロデューサーを務めているのがバリー・ジェンキンス。「ムーンライト」の監督です。ここからもこの作品はクィアの系譜、クィアの血が強く流れている作品だということは間違いないでしょう。
カラムの年齢
「Aftersun」のトルコでのバカンスの時期は、挿入される音楽などから90年代後半だと推測されます。するとカラムはそこで31歳になるわけで、生まれは1960年代後半。80年代に思春期を過ごしたことになります。
そしてインストラクターとの会話などから30歳になるなんて信じられなかった、40歳になることは想像できないと発言。これはそこまで生きてるとは思えてなかった=10代~20代の間ずっと自殺願望、希死念慮があったということと捉えることができます。
カラムの出身はスコットランド。イギリスの中でもスコットランドは最も遅い80年代まで同性愛が違法だった地域。ということは、より同性愛嫌悪が強かったとも考えられます。また80年代はAIDSの時代です。思春期に同性愛への強い抑圧と死が結びつく想像の中で育ったこと。これが彼の希死念慮に寄与した可能性は高いと思います。未来に絶望しかなかったわけですから。
ではなぜソフィーの母親と結婚した(かどうかも不明ですが)のか?そしてソフィーをなしたのか?
この理由は簡単。ストーレートになれるならなりたい、ストレートとして生きれないかと10代の間は模索していたから。だからまだ自身のセクシュアリティに確信が無い時期の20歳そこらで父親になっているわけです。
ソフィーの母親との関係
ソフィーの母親とは別れてからもそれなりに良好な関係を維持していると描写されている。電話での会話で、「僕のこと気にかけてるの?」とカラムが冗談めかして言ったように元妻も彼を心配している様子。一方のカラムも電話の最後に「Love you」と自然に付けるほど。両者とも”家族としての愛”はまだちゃんとある様子。
ここでのクィア・リーディングとしては、先ほど述べたように自己のセクシュアリティが確定する前に結婚&子供を持ったゲイが、その後セクシュアリティの確信に至り、妻に正直にカミングアウト→離婚というパターンではないかという意見が多い。女性の方がクィアに関しては理解や包容力が高いので(←ホントのところはわかりませんけどね😅。ブチ切れしてるけど仕方ないと割り切りが早いだけとも思えなくもない。社会で理不尽なことが多い女性はそれを生存戦略として生きている部分ありますから)、男女の愛は無理なので終えたけども、人間としては好き、家族愛は継続しているという描写なのだろうと。
カラムはとても優しい男性だし、ポール・メスカルはピープル誌の選ぶセクシーな男性リストにも挙がってるんだぞ!ゲイであること以外に離婚する理由なんてないじゃないか!なんていう意見もあって笑っちゃいましたw。
これも別にゲイが原因で別れてなくても関係が良好な元夫婦はいる訳で、そう捉えようとすれば捉えられるの範囲を抜け出してはいない。ただ映画やドラマではこういう元妻が理解を示すというパターンは割と見かけます。日本のドキュメンタリー番組で、夫が女装しだしてクィアだとカミングアウトした家庭の話をいくつか観たことがありますが、妻が受け入れて生活を継続しているパターンが多い。逆に妻が男装しだして夫が受け入れてるというパターンは聞いたことが無い。こればかりは経済的支柱がどちらにあるかや、その他の要素もあるので一概に女性側に理解と包容力があるとは言えませんが…。
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タツノオトシゴとタコ
これは私独自のクィア・リーディングです。誰も指摘してなかったのでしてみました。
ソフィーがダイビングした時の経験をビデオに話している際、タツノオトシゴを見たと言ってました。もちろんダイビングでタツノオトシゴを見ることもあるでしょう。しかし映画において、そのワード・チョイスには意味があるはずです。なぜわざわざタツノオトシゴという生物を選んだのか?
そこで調べてみると興味深い事実がありました。
まず有名なのはタツノオトシゴはオスが出産&子育てをする生き物だということ。雄のお腹にある育児嚢にメスが卵を植えつける。そしてそこで卵が孵化し、子育てというほどではないがある程度の大きさまでその中で守り、その後、多い場合は2,000体ほどの子供を吐き出すように放出する。
これは男親であるカラムが子育てしている状況をタツノオトシゴに重ね合わせていたのだと思います。
そしてここからがクィア・リーディング。タツノオトシゴはペンギンなどと同様、自然界においてゲイ行動が見られる生物かどうかということ。
こちらの記事によれば、2007年の調査でタツノオトシゴはほんの少しだけというには抵抗があるほど無差別に性交を行う。一日に約25のパートナーと性交し、そのうち37%は同性同士でのものである説明されていました。
タツノオトシゴはゲイと言うよりバイ、もしくはパンセクシュアル(全性愛)というかんじでしょうか?そもそも彼らにそういう意識自体あるのかどうかって感じですけども…。とにかくタツノオトシゴは、上記記事で6つのクィアな海の生き物に挙げられるほどにはクィアな存在であるということ。実際レインボーカラーのタツノオトシゴTシャツなどもネットでは売られているので、ある程度海外では認識されているのだと思います。
そして次にタコです。ソフィーがインストラクターにタコを頭に載せられたと言っていました。まずタコはダイビングで簡単に捕まえられるような生き物ではない気がします。擬態し動きは早い。海女さんも漁で採れないからタコつぼ漁なのだと思います。よってここで強引にタコを出してきたのは絶対意味があると思うわけです。
で、私の考察は、タコ=リトルマーメイドのアースラ(海の魔女)です。
彼女は↓動画見て貰えばわかりますが下半身はタコです。
このアースラと言うキャラクター、実はクィアのシンボルだったりします。
理由は、このディズニー版キャラの造形モデルになった人物がドラァグ・クイーンの元祖と言われるDivineディバインという人物だからです。
これは噂ではなくて現在では当時のアニメ制作者も彼女をモデルにしたと認めている事実となっています。
ジョン・ウォーターズ監督とタッグを組んだカルト的人気を誇る「ピンクフラミンゴ」など、数々の奇抜な映画に出演もし、60年代後半から20年余り活躍した人物(88年に心不全で死去)。関連動画を観ていると、「ピンクフラミンゴ」ではマーメイドドレス着用し、DragQueen Showでは裾が暖簾状に切れているタコ足のようなドレスを着ていたりしており、まさにアースラにインスピレーションを与えてそうな存在。
いまやRuPaulの「Drag Race」も世界中でフランチャイズがある人気のTVショーになっていますが、彼女がDrag文化を発展させたおかげだと言われています。マツコ・デラックスもある意味彼女にルーツがあると言ってもいい気がします。
アースラ自体のセクシュアリティは不明ですが、アースラ=Drag Queenというイメージは認知されてきており、昨年作られた実写版「リトルマーメイド」でアースラ役を演じたメリッサ・マッカーシーもDivineをリスペクトしていると言及。
アニメ版「リトルマーメイド」(1989)は90年代以降に生まれた女子にとってはある意味でバイブル的作品。よっぽど貧困や特殊な思想に傾いている家庭でない限り、親が「リトルマーメイド」の絵本やビデオを幼少期に与えている確率は非常に高い。ここで女性であるウェルズ監督は1987年生まれ…まさにドンピシャ世代。その幼少期に焼き付いたアースラのイメージを大人になってから歴史的背景を考慮した上で、クィアの文脈として”タコ”をわざわざ出してきたというのが私の考察です。
さらに付け加えると、Divineもまた鬱に悩んでいたとWikiに書かれていることもこの説を推したい理由。
もう一つ面白いことに今回改めて知ったのは、「リトルマーメイド」の作者、アンデルセン Hans Christian Andersen もゲイだったということ。彼の日記や知人による回想録には、アンデルセンの同性愛への関心や交際していたであろう人物達のことが書かれていると、英語版Wikiに載っていました。
そして「リトルマーメイド」のアリエルはアンデルセン自身を投影させているという説もあるらしい。最後に王子は人間の女性と結婚し、人魚のアリエルは悲しい死=泡になって消える…ここに、ゲイが好きになるストレートの男は女と結婚し、自分の恋は報われないという状況と重なるわけです。そういう悲劇的な結末も、カラムと一緒でアンデルセンの希死念慮が影響していたのかもしれません。これらを踏まえると、「リトルマーメイド」のどことなく悲しい結末を迎えそうな不穏な空気が漂う作風と「Aftersun 」の作風は似ている気がします。舞台も海(の近く)ですし。
三つの根源と死の真相
ここまでカラムの鬱の原因を彼のセクシュアリティにあると推測し、映画に散りばめられたクィアな文脈をクィア・リーディングしてきました。
しかしクィア・リーディングをしていると、セクシュアリティは大きな流れとしてあるものの、それに当て嵌まらないものも確実に映画内に存在していることが浮き彫りになってきました。
それは虐待と遺伝です。
虐待
プールサイドで暴れる子供を父親が手首を掴んで抑えつけてるのを眺めてるカラム。
「おばあちゃんとは最近いつ話したの?」とソフィーに訊かれ、一瞬の沈黙の後に話題を逸らしたカラム。
11歳の誕生日を家族の誰も憶えてくれていなかったという話をするカラム。母親に伝えると、その後父親にデパートに連れていかれプレゼントを買って貰えたと話す。
これらの描写からカラムは家庭で、父親からはフィジカルな虐待を、母親からはネグレクト的な精神的虐待を受けていたことがなんとなく想像できます。
そして親からの虐待と共に学校でのいじめ等もあった可能性もある。カラムは故郷スコットランドには帰りたくないと言っている。友達とのいい思い出があるならもう少し躊躇してもよさそうですが、即答で帰郷拒否。ここに親だけでなかった可能性を薄っすら感じます。
(北ヨーロッパの日照時間の短さ=セロトニン分泌量が減少→鬱が多い…というのも勿論考慮すべき点ですが)
ソフィーに執拗にセルフ・ディフェンスの重要性を教えるカラム。これは自分が暴力に苦しんだからこそだと考えると筋が通ります。
(手首のケガももしかしたらゲイバッシャーに遭遇して攻撃された可能性もある)
そしてこの虐待を受けてきた記憶が、彼のセクシュアリティの悩みと並行して流れているカラムの鬱の原因のひとつではないかと。
虐待を受けてナニクソと反骨精神を強められる人もいるでしょう。しかし多くの人はその理不尽さだったり、抵抗できない状況だったりで、そこに生まれる感情は絶望です。そして一度心に刻まれてしまった絶望は、ことあるごとにその傷が疼きだすのです。
ここで敢えて深堀してクィア・リーディングをしてみると、なぜ虐待をうけていたのか?その原因は?と考えると、”カラムがゲイだったから”という可能性も十分ある。
まだセクシュアリティさえよくわかっていない幼少期にゲイというのも変ですが、人当たりよく優しい→ナヨッとしていると捉えられたり、周りの環境に女性が多くて女言葉を話してしまった→オカマと扱われたり、そんな些細なことで虐待・いじめに繋がることも普通にあります。
勿論単に虐待者、イジメ加害者がクソ野郎共だったというシンプルな理由もありうる。しかし上記の考察から鑑みるとクソ野郎が多すぎます。父親だけ、母親だけ、いじめ生徒だけでは無さそうな雰囲気。ということはカラムに何かしらそれらを起こさせる呼び水となるものがあったと見るのが普通。
勿論カラムは何も悪くない。しかし、時代、社会、環境、それらがそういう奴らに虐待の正統性があるかのように勘違いさせ、悲劇があちこちで起こっているのが現実。
映画「エゴイスト」でも、主人公のゲイである浩輔は実家に滅多に帰らない。母の命日だけ。それは故郷を、自分を虐めた連中への憎しみがまだ残っているから。帰郷時に横断歩道で見かけた自分を虐めた元同級生と、都会でキャリア積みブランド服で固めた自分を比較して内心勝ち誇って見下す。それで心の中でいまだ疼く古傷を慰めている…という描写がありました。
人には故郷に帰りたがらない理由はいろいろあるでしょうが、クィアとして故郷で絶望した経験のある人物が帰郷することに抵抗があるというのは、おそらくユニバーサルな傾向といって間違いないでしょう。
遺伝
次に映画の中で、見過ごしそうだが印象的で重要なシーンがある。
カラムが鏡に向かって歯を磨いている時に、ソフィーが骨から感じるほどの疲れ、倦怠感があるとベッドで寝ながら話すシーン。
初見では何気ない会話に聞こえます。しかしカラムに鬱の問題があるとわかってから観ると、この鬱はひょっとしたら遺伝性の可能性があるのでは?という疑問が浮かんでくるのです。
実際、海外掲示板でもその意見を支持するコメントが結構ありましたし、そのソフィーの話を聞いた後にとるカラムの行動が、口の中の歯磨き粉を鏡に映る自分の顔に向かって吐き捨てるというもの。つまり愛する娘に鬱の遺伝子を与えてしまった自分は唾棄すべき存在だということです。
これを踏まえて大人ソフィーの描写をみると、確かに笑顔などなく一貫してずっと気怠そう。赤子の鳴き声から子育て鬱の可能性も含ませてるので遺伝鬱の部分はより曖昧になっているのですが、ここに監督の曖昧さに対するこだわりを感じます。父親と同じ年齢になったからビデオを観たとも取れる一方、鬱に悩む自分の理由を探した結果、父親に行きついたとも取れる。
ここからさらに、カラムの鬱も遺伝によるものとも考えられる。先述した親による虐待、特に母親のネグレクトは深刻な鬱状態がもたらしたものと考えられなくもない。
そしてカラムは、それをソフィーに継承してしまった罪の意識によってますます鬱が悪化していく状況にある。このバカンスでソフィーと親密な時間を過ごせば過ごすほど現実を突きつけられ追い詰められ、その結果、自死に至ったという流れも納得できます。
このように映画を注意深く見て考察していくと、セクシュアリティ、虐待、遺伝、この三つがカラムの鬱の根源にあるもの、映画の第三層部分に横たわっているものだと分かってきました。
*****
ここで、この映画から読み取れるカラムの鬱の世界をビジュアル化するなら、
絶望と言う漆黒の暗闇が覆う世界。
カラムは鬱という名の橋の上に立っている。
橋の下には死と言う川が流れている。
橋には鬱を支える三つの橋脚 ”セクシュアリテイ” ”虐待” ”遺伝” がある。
そしてそのすべてに爆弾が仕掛けられている。
”セクシュアリティの橋脚”の爆弾が死の原因だと思ってここまでクィア・リーディングをしてきたわけですが、こうやって整理してみると、先述したようにソフィーと過ごしたことで最も意識しただろうことは”遺伝”。そこから”セクシュアリティ”と”虐待”の橋脚の爆弾も誘発され爆発。そして橋が落ちて死亡…。
これがクィア・リーディングを通して導かれた、私なりのカラムの死の真相に関する考察です。そしてこの考察だと、監督が当初はセクシュアリティを鬱の原因として意識したが(だからクィアな文脈は散りばめられている)、それが(直接的な)原因ではないと言った意味もしっくりくるように思います。
クラブシーンの意味
ここまでの考察を踏まえると、ライトが点滅するクラブで踊り続けるカラムと大人ソフィーが対峙するシーンの意味がなんとなく分かってきます。
このラストに至るまで時折挿入されるクラブシーンはソフィーがカラムを探してる場面。
そしてラストのクラブシーン、シークエンスで追っていくと…
➀群衆の中でやっとカラムを見つけ、まずカラムに向かって何か叫ぶ。決して再会できて喜んでる顔ではない。どちらかというと怒ってるような顔。
②次に踊り狂うカラムを必死に抱き締める。
③合間に挿入される子供時代のソフィーとカラムが踊る映像。子供ソフィーが抱きついたカラムを押し離すと、大人ソフィーも抱き締めていたカラムを(突き放しているかははっきりわからないが)前に離す。
④するとカラムがどこかに落ちていく。それをソフィーが憮然とした表情で見つめる。
⑤最後にソフィーがフラッシュの光る方向を気にして振り返る。
このシーンのソフィーの感情の流れが最初理解できなかった。しかし考察してきたことでなんとなくわかってきた気がします
まず➀。怒りながら叫んでいる→自分を残して死んだカラムに対する怒り。どうして、どうして自殺なんかしたのよ!!大好きだった父が死んで20年。ずっと彼女の中に燻っていた感情。ずっと寂しかった想いの裏返し。
次に②。ビデオ、記憶、想像力を通してようやく理解できたカラムの苦しみ、受け止めてあげたい想い、込み上がる愛情、自分も悩んでいる鬱への共感、それらが高まり衝動的に強く抱きしめる。
ここで娘との再会を喜ぶでもなく踊り続けるカラム=ソフィーより自分の願望を優先させ、闇(=死)に取り込まれ喜び踊るカラムを表現。このシーンはソフィーの想像の世界なので、自分より死を選んだという想いが反映されている。
ここでカラムの顔のアップ。その目は焦点が定まっていないような悲しい目。しかし決してソフィーを見つめている感じでなく深淵を見ている目をしている=闇に取り込まれてしまった人間。
③=そしてソフィーはカラムを突き放す(ように見える)=ソフィー自身も現在鬱に悩み、闇に取り込まれそうな状況にあると考えると(だからこそこの暗いクラブにソフィーも足を踏み入れることができている)、お父さんのようにはならないという決別宣言。
④=悲しい顔でなく無表情な憮然とした感じも、怒り、愛情、悲しみ、寂しさ、鬱という恐ろしい闇、抵抗が無駄に終わる虚無感、しかし私は鬱に負けないんだ!という抵抗と決意、それらの感情が入り混じっての表情に見える。
カラムは深淵に落ちていく=闇に溶ける。ソフィーの長年燻っていた想いも溶けていく。父へのネガティブな想いを手放す時。
⑤=対照的にソフィーは光の方を振り返る=パートナー、子供がいる明るい未来の方に意識が向かう。
このクラブはある意味、闇落ちする前の前室的な場所。ここで光るフラッシュが、絶望の世界に時折挿し込む希望の光(闇の量に対していかに光が少ないか…)。それに気付けた人は戻れることも出来る…的な感じでしょうか。
ということで、このクラブシーンは、カラムとは違う選択をする”ソフィーの頭の中”を描いていたんだというのが、ここまでの考察とシークエンスを追うことで理解できた気がします。ソフィーだけに「ソフィーの選択」だなとw。←メリル・ストリープが演じたソフィーはこのソフィーとは違う選択をするんですけどね…。
セクシュアリティに関しても受容される世の中に変化してきた。気持ちをオープンに打ち明けられ、サポートしてくれるパートナーもいる。鬱に対する知識や研究も進んだ現在、凄く合理的で納得のできる選択とも言える。ここにウェルズ監督なりのポジティブなメッセージが込められていることがわかります。
このポジティブなメッセージを踏まえると、タイトルの「アフターサン」が日焼け後のアフターローションの意味をするのも納得。過去を振り返り現実を見つめることは痛みを伴う=日焼け後でヒリヒリする肌を触ることは痛い。しかしその向き合うケアをすることで痛みは治まり、肌の回復に繋がる。痛みをもって振り返り、父の、自分の、鬱の原因を理解できたことで、漠然とした苦しみからは解放される。そこからポジティブなメッセージを受け取り未来に前進できる。
ソフィーをレズビアンにした理由
さらにここでソフィーがレズビアンだということの意味も凄く意味が出てきます。
ソフィーがレズビアンなのはカラムからの遺伝…ではありません。同性愛は遺伝しませんので。ではなぜ監督はソフィーも同性愛者にしたのか?
現在レズビアン・カップルが子供を持つ場合、パートナーどちらかの卵子と提供された精子を使います。そしてその受精卵を卵子提供とは別のパートナーが妊娠して出産することで両者が出産に関わることができるようにするという選択ができます。
ソフィーがどうやって子供を持ったのかは不明ですが(養子かもしれない)、仮に遺伝を危惧していた場合、卵子はパートナー提供、自分は妊娠&出産を提供すれば危険因子を回避しながらも親になれるという選択をできる。遺伝的な親ではなくサロゲートとはいえ、この世に産み出したという大きな役割を果たしているわけで、生命の誕生という視点では限りなく重要な存在のひとつになれる。ゲイの場合は片方の精子提供しかできないわけで、レズビアンだからこそ可能な方法。これはこの鬱の遺伝問題において親になることへの前向きな対処法であり、それをおそらく自身もレズビアンであろう監督だからこそ辿り着いたポジティブなメッセージなのかもしれません。
パラグライダーとギプスとマスク
映画に登場するアイテムには何かしら意味、意図があるはずです。しかし私がクィア的文脈を探ろうとしてもピンとこなかったものがパラグライダーとギプスと水中マスクでした。
しかしここまで色々考察してきたことによって、なんとなく意味が分かってきたところを記しておきます。
パラグライダー
これに関しては印象的に何度も画面に取り入れられており、絶対何らかの意図があるのは明らか。ただ私は今ひとつ意味がわからなかった。
それで検索した結果、監督がそのメタファーを説明してくれている記事を見つけました。
知るととても分かりやすいし納得。
”コントロールを失ってくるくる落ちていく”と言うところにカラムの鬱の深刻化→スパイラルを描くように闇に落ちていく様子と重なているというわけです。私がそこに気付けなかった理由は、そんなに落ちそうには見えておらず、ただただ楽しそうに飛んでいるイメージしかなかったから😅。
ここで強引にクィア・リーディングもしてみると、
同じスカイ・スポーツでもハンググライダーはもっと直線的で攻撃的且つハンドルを掴んで力もいるイメージ。ウイングスーツで滑空なんてのはスリルを追いかける超マッチョなイメージ。スカイダイビングも落ちていくという意味では良さそうだけど映像に取り込むのはあまり適さない。
一方のパラグライダーはフワフワ漂う系。
セクシュアリティがどっちつかずで漂うクィアの様子と関連付けられるし、インストラクターとの会話の項であったようなクィアな人物の漂流傾向、地面に足が付けない=地に足を付け難い傾向(家父長制に則って家庭を持てない)にも合致します。スカイスポーツならどれも足はついてないですが、積極的に飛んでいる場合と長時間浮かんでる場合だと後者の方が地に足がついてないイメージは強い。
あと風を読み上昇下降を繰り返し進んでいく様子は、敏感に世間の視線を読んで(攻撃されないように)生き抜いていく姿とも重なります。
ギプス
これも何らかの意味がありそうなのにわからなかった物。
しかしここまで来ると、これはカラムが感じている抑圧の象徴であり、世間の型に当てはまろうとする自分、または当てはめようと強要する社会のメタファーなのだと想像できます。
そしてギプスを外そうとするときにハサミで傷つけ出血する。
これもまたその型から外れる、外れようとすると痛みを伴うことを意味してる。この時代にゲイであることをカミングアウトする=伝統的家父長制の枠からはみ出ることは強力なバッシングにあう=痛みを伴うわけですから。
または鬱という抑圧からの解放(=死)とギプスからの解放を掛けているとするなら、ここでの痛みは娘ソフィーとの別れでしょうか。
あと手首というのも意味深に繰り返されていた印象です。
手首のギプス。手首を掴んで教えるセルフ・ディフェンス。オール・インクルーシブの手首に巻く輪っか。
カラムの高所からの飛び降り、バスへの飛び込み、溺死…あちこちに自死のイメージが溢れている映画の文脈から考えると、希死念慮の代表的行為であるリストカットを連想させようとしていたのかもしれません。
水中マスクと絨毯
海に落として沈んでいくマスク。そして失なったことで落ち込むカラム。
何かを暗示している気がするけどわからなかった。
しかし最終的なソフィーの心情を理解した今だと分かった気がします。
まずこのマスク、カラムがソフィーに投げて渡そうとするがソフィーは気付かないで受け取れずに海に沈んでいく。
マスク=水中メガネですから、カラムが見ていたビジョン=鬱のビジョンだとすると、ソフィーに渡す=遺伝によって受け継がすところだったが、受け取ることがなかったと解釈できる(鬱自体は遺伝で受け取ったが、ポジティブに乗り越える選択をしているので死を選ぶビジョンは受け取っていない)。マスクを追いかけて海に潜っていくカラムも、鬱のビジョンと共に深淵に落ちていくカラムのイメージと重なります。
逆に受け継がれたものは絨毯。これもこの文脈で考えると、複雑な文様=鬱状態の複雑な心情を表していて、鬱がソフィーに受け継がれていることを補強するアイテムだったということなのかも。その絨毯を使用している=踏みつけにしている…鬱を足蹴にする、鬱に抵抗しているとも取れる(カラムは寝ころんで感触を享受していた)。
監督が影響を受けた作品
インタビュー動画や記事で監督が言及していた影響を受けた作品などを備忘録として載せておきます。
まずはClaire Denis監督の1999年の映画「Beau Travail 」
リンク先のトップに比較画像が載っていますが、この動画のサムネイルの場面が、ソフィーからバースデーソングを歌われた時のカラムが振り返るシーンのインスピレーションになっているそうです。
ちょうどこの日本未公開だった映画「Beau Travail 」のレストア版がミニシアターで順次公開されるという記事が出ていました。
”「ムーンライト」のバリー・ジェンキンス監督、「aftersun アフターサン」のシャーロット・ウェルズ監督が本作の影響を受けたと公言し、ヴィム・ヴェンダース、ジム・ジャームッシュらからも愛される本作。グレタ・ガーウィグも「美しくてエモーショナル。現実離れしていながら、深く胸を打たれる」と絶賛し、2019年度BBCによる「女性監督映画ベスト100」第4位、2023年度版TIME誌「過去100年の映画ベスト100」でも選出されている”
と、多くの監督から支持されてる作品。どんなものなのか気になります。
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次はChantal Akerman監督の 「La Chambre」 (1972)
これは動画で全部観れるので観てみると分かるのですが、映画のラストシーン、大人ソフィーがソファーに座っている部屋の様子をゆっくりと360度回転して写す手法を真似ています。
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ヴィム・ヴェンダース監督の「Alice in the Cities 都会のアリス」(1973)
男と少女とのロードムービー。色々とインスピレーションを受けていそうな作品。監督が言うには、カラムとソフィーが一緒に太極拳をするシーンはこの映画の二人がエクササイズをするシーンから来ているそう。
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ソフィア・コッポラ監督の「Somewhere」(2010)
これも父親と娘の物語。プールでの水中シーンはこの映画から影響を受けているそう。そして父親役のスティーブン・ドーフが手首にギプスしている!!そこもインスピレーションに違いない。
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Lynne Ramsay監督の「Morvern Callar」 (2002)
ウェルズ監督と一緒のスコットランド出身の女性監督。撮影中に彼女のディテイル、ある特定のジェスチャー等を捉える手法を参考にしたりしている。
影響を受けた作品として「Morvern Callar」。
主人公のボーイフレンドが自殺する(←ポイント1)。彼が遺した小説を自分名義で出版する話を勧める一方で、女友達とスペインのリゾートに遊びにいく(←ポイント2:イギリス人が南欧リゾートにパッケージツアーで遊びに行くのが多かった)。そのリゾート先のクラブでのレイヴシーンがAftersun のレイヴシーンに影響を与えている。
あとは Edward Yang(「ヤンヤン 夏の想い出」の監督), Ingmar Bergman (「ペルソナ 仮面」の監督。「May September」のトッド・ヘインズ監督も影響を受けていた)などなど。
シャーロット・ウェルズ監督は何事も明確にはせず曖昧さを全編通して維持し、解釈は観客に委ねるスタイルを貫いています。なので私のように全てを解き明かそうとするのはある意味無粋だとは思いつつ、好きに解釈してもイイとも仰っているので、とことん深掘りしてみたら思った以上に謎だったピースが繋がった結果に至れた気がします。
ということで私的☆評価です。
素晴らしい構成と撮影、編集。長編処女作とは思えない完成度。しかし最初は結末があまりにも悲しいものだと思っていたので8.5ぐらいでした。しかし考察を深めていった結果、監督のポジティブなメッセージも感じられたので
星☆9~9.5点!!
マイナス点は初見では理解できな過ぎる点と、考察し始めたら蟻地獄のように深くてドンドン気になる点が浮き上がり、物凄く疲れたという点ですかね 苦笑。
今回この映画を観ようと思った理由は、ポール・メスカルが「異人たち:All of us strangers」という作品に出ていて、彼のことをもっと知っておきたかったからです。
この映画でも…というかこの映画では!ガッツリゲイの役を演じているポール・メスカル。
掲示板のコメントに、「異人たち:All of us strangers」でポールが演じるハリーはまるで「Aftersun 」のカラムのその後、地続きのような人物という気持ちになる。現在私たちはポール・メスカルのCU(シネマティック・ユニバース)の時代にいるみたいだ」「私も同意見。ポール・メスカルのゲイで鬱のCU時代だね」とあって、なるほどと笑ってしまった。
そしてこのポール・メスカルのゲイCUはさらに続く。「ゴッズ・オウン・カントリー」でゲイ役演じたジョッシュ・オコナ―と共演するゲイロマンスムービー「THE HISTORY OF SOUND」が待っています。ストレートなのに頑張りますね~www。
追記:「異人たち:All of us strangers」の考察記事も書いたので、興味ある方は是非。
参照記事