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改めて自己紹介をします ~ 学歴&日本語

どうも。ベロニカです。

今回の「自己紹介シリーズ」で皆様の質問に答えたいと思います。

「どうして日本語こんなに上手なの?」

「日本人ですか?」

「日本育ちですか?」

「ハーフですか?」

「日本に住んだことがありますか?」

「日本人の彼がいますか?」

などの質問は1億回くらい聞かれたことがあります。

以上のことを(日本人じゃない)友達と知り合いに話すと、毎回信じてもらえないのも変な話ではありません。

「しかもこの顔でね?」と顔の方に指を指し、毎回笑いに変えることにしています。

勘違いしないでほしいです。ただのネタにすぎません。

スロバキアとチェコの教育の独特なところも含め、自分の学歴と日本語を勉強し始めた理由などを、お話したいと思います。

それでは、学校の話をしましょうか?w

(なんか、ちょっと宿題をしなきゃいけない気持ちになってしまいましたww)

スロバキアは、幼稚園に入ってから、ドイツ語か英語かを選び勉強し始めます。私がこの選択肢が出されたとき、ドイツ語が嫌だから、英語がいいという、理由もない決断に至ります。そして、それだけで、幼稚園から英語を勉強することになりました。もちろん、英語の勉強は、幼稚園では、遊び程度の習い事に過ぎないのですが、小中学校に入ると、真面目にやらなきゃいけません。

うちの小中学校は、一般的な3年からの開始ではなく、進学してすぐに他言語を勉強するという仕組みになっています。

さらに、私が通っていた小中学校は、キリスト教の学校で、毎日1限のはじめにと、最後の科目の最後にお祈りすること、キリスト教の授業が必須で、時々、ミサに行くこともあります。

キリスト教式小中学校だから、生徒さんは天使のような子たちばかりだと思えば、大間違いです。宗教的な理由で子供をこの学校に入れた親がもちろんいますが、基本的に、他の学校ではどうもできない子たちがよく転校させられたため、日常生活が相当ワイルドでした。この決断に至った大人は何を考えていたか、いまだにさっぱりわかりませんが、

ひょうっとしたら、神様の力を借りて、落ち着かないまたは勉強ができない子たちを正当化でもできるかと、思っていたかもしれません。

神様の力だけだと、どうもならないですけどね。

うちの小中学校は、問題児がたくさんいたので、様々な問題が起きるのが日課だったのですが、先生たちが優秀だったし、なにかしらの遠足に毎月行けて楽しかったのです。

スロバキアの教育制度の特徴一つを取り上げると、「オリンピック」という決まった科目で同じ学年で競争するものです。例えば、数学オリンピックに参戦したいと思った生徒たちが2-3ページほど問題集をもらい、家で自分で解きます。しかし、授業の内容より、難しいわけなので、自分で色々調べる必要があります。

この「オリンピック」で、ある点数が取れたら、高校入学試験の時、その科目の試験が免除されるうえ100点が入ります。私も、それで、高校入学試験のとき、数学と英語の試験を受けなくて済みました。狙っていた高校では、入学試験は、母国語のみだったため、楽勝でした。

高校のとき、もう一つの必修他言語としてフランス語を選びました。最初は、ちょっと難しかったのですが、途中から、宿題をしなくても優秀な成績が取れたし、高校のフランス語での演劇部にも入りました。そのクラブの先生がフランス人で、周りのみんなは、フランス語歴が私よりずっと長いため、すっごく勉強になりました。そのおかげで、高校を卒業したころ、ペラペラ喋ることができました。

前回の記事にも書いたように、8歳の時から、砂金掘りの大会に参加していたため、世界中の人々と話すことができ、刺激いっぱいの経験でした。

さらに、中高校のとき、インターネットが一般的に導入されます。うちにはまだネットがないころ、図書館のパソコン室へ行き、グループチャットで英語で世界中の人たちと喋ったりしました。とても楽しい暇つぶしでした!

これもあったから、大学の選考を選んでいたとき、とても悩んでいました。幼いごろからの夢である考古学者の仕事にすごく憧れていましたが、将来性のない職業なので、辞めることにしました。

その代わりに、国際関係か言語かという選択肢までたどり着きます。理系は向いているといわれ続けてきたのにw

まあ、そんな中で、ある決断をします。

言語を勉強します。が、ヨーロッパの言語がどれも似すぎているから、全く違うアジアの言語を勉強しようと。

そんな適当な流れで、さらに適当なことに「じゃ、日本語でいいんじゃない?」と自分の未来を決めた私がいます。

このことをアメリカ出身のゴッドマザーの旦那に伝えると、「何で日本語なの?中国語の方が今習った方がいいよ」と言われるだけです。

チェコなら、日本語は大学3つで勉強ができるけど、そのうちの一つは、ダブルメージャーという独特な制度になっている、つまり、同時に専攻2つ勉強ができるとのことです!

しかも、日本語も中国も!!

こんな適当な感じで、ヨーロッパ人からしたら自殺行為に近い専攻を選びました。しかも、受かりました。

実は、大学4つに応募したのに、どれも受かればどこに行こうかと考えていたら、「じゃ、最初に合格通知が届く大学!」と再び適当に自分の未来を決めます。

そして、最初に届いたのは、チェコの東側にあるオロモウツという町にある、ダブルメージャーで独特な大学です。

はい!

「これから中国語と日本語を勉強します!」

正直にいうと、簡単ではなかったし、周りの人に専攻を伝えると変な目で見らる日々ばかりでした。

しかし、そんな中でも、中国語と日本語を同時に勉強していて、互いに役に立ちます。

例えば、中国語なら、最初は漢字の勉強から勉強し始めます。一方、日本語は、カタカナとひらがなから入り、1か月遅れて漢字の勉強をし始めます。しかし、中国語のレッスンから既に漢字がわかっているから、日本語でレッスンになると、読み方が分かったりしていたため、「漢字がわかる人」として先生に認められるわけです。謎なことにw

そして、ヨーロッパ人からしたら、こぼした茶葉にしか見えない漢字の勉強すらも、いつの間にか妄想的なものになっていました。各漢字を10~20回書かないといけないのに、ドラマか音楽を流しっぱなしにして、ひたすら書き続けるのです。

ヨーロッパ人からしたら、どちらも同じく変な人に見えるのに、専攻によって人間性が出るということがわかりました。中国語学科の学生は、目標が高く、ビジネス場面を目指している人が多いのに対し、日本語学科の学生たちは、仲良くし、互い助け合ったりし、アニメや音楽で盛り上がることが多かったです。

日本語学科の先輩たちとすぐに仲良くなれたお蔭で、何も知らない私がドラマと音楽を紹介してもらったうえ、日本文化を広まっている日本クラブの一員になり(そのうち会長になる)、毎年大学に来る留学生と先生方のお世話することになります。

これらは、私の日本語にものすごく大きい影響を与えてくれます。

日本人と日本語学科の学生とよく集まり、話の内容がわからない私がいるのは当たり前ですが、大学の勉強に加え、交流会、ドラマとバラエティーの鑑賞のお蔭で、三年生のころ、話の内容が理解でき、会話に普通に参加できるようになっていました。

「何でこんなに日本語上手なの?」と聞かれても、さりげなく「日本人とビールたくさん飲んできたからだよ」と返すと、笑いが取れますが、これはマジで事実にすぎません。

多分、大学のころ、日本人との日々が送れなければ、こんなに話せるようになっていなかったのだろう、とは思います。

「チェコとスロバキアの大学は学費が無料なのですが、私はビールで学費を払っていた」と言っても大げさになりません。

そのうち修士課程に進学し、日本に留学します。

詳しく言うと、栃木県にある宇都宮大学に。

学習院女子大学に行く選択肢もありましたが、女子ばかりの学校に行くのが嫌だったし、宇都宮に友達何人かがすでにいたから、迷わずここにしました。

この時、すでに日本語が話せたので、同じ時期に来た留学生に「日本は何年くらい住んでいますか」と聞かれたら、「今、あなたと同じく来たばかりだよ」と返すと、相手の目が丸くなるほど驚かれます。

日本語が話せたからこそ、生活に問題がありませんでした。その分は、周りのみんなに手伝ったりしました。

しかし、私にとって留学生向けの授業が簡単すぎて、挑戦にならないと分かっていたから、あえて留学生には難易度が高いと言われた科目を登録し、日本人だらけのクラスで勉強することにしました。

単位を取る必要がなかったから、学校外で日本人との交流を深めるために、チェコ語または英語の先生のバイトや、飲食店のバイトや、通訳などをやっていました。

おかがで、色んな出会いに恵まれ、観光・日本のあらゆる演劇・文化・歴史・音楽などにさらに触れることができました。

留学後、チェコに戻り、修士号を取ります。

この頃、日本に戻れるために、就活はしていたのですが、あまりにもうまく行かず・・・

そのとき、中国学科の偉い先生に声かけられて、新しくできる博士課程に応募し、受かります。その専攻は、中国と日本における文化と言語という名の専攻で、私にぴったりだったかもしれません。

博士課程に進学したとき、長年の仕事もしていたから、生活には困らなかったし、むしろ、仲いい後輩たちの面倒を見ていました。

そして、二年生のとき、ある男性に出会いその人にプロポーズされたことがチェコを去るきっかけになり、人生がくるっと変わると、当時は想像もしなかったです。

その一年半後、様々な事情で、仕方なく博士課程を辞めるしかないと判断しました。

しかも、その二か月後、離婚することになります。

まあ、この話はまた次回にね!

最後に、これだけ言わせていただきたいです。

日本人の皆さんと先輩たちなどに、最初から支えられていなければ、私の日本語、そして人生はどうなっていたか、想像もできません。

みなさんに出会い、楽しい交流と遊びができたからこそ、私の日本語がここまで伸びたに違いません。

いい出会いに恵まれたから「日本語頑張ろう」と思った私がいるので、自分の能力を磨くためにTwitterそしてnoteをやり始めたわけです。

いつか、日本語で本を出版できれば、最高すぎない?という思いが、noteを書いているのはもうすぐ二周に迎えます。

私の日本語は、まだまだだと分かっていますが、これからも皆さんにも見守っていただければ幸いです。

ベロニカは、これからも、日本語頑張るんで!!!

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