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【短編小説】 2024夏、そして秋の扉がひらく頃 

6月、朝顔まつりの儚い青い朝顔、粋な法被姿の売り子、色とりどりの紫陽花、いや今年は紫陽花の切り花の方がいい。
古風な趣かもしれないがこう感じられる時に自分を確認しほっとする。

扉の向こうに夏の景色が見えていた。
夏はとりとめのないことでも、心を打ち砕くようなことでも全て思い出になる季節。
新しいことが始める前、これから何が起こるんだろうと思いをめぐらすのは楽しい。
今年の夏はどんなことが待ってるんだろう。
蒸し暑いこの季節の中、Kはアウターを脱ぎ、Tシャツに着替えて公園のテラスで冷たいコーヒーを飲みながら、最近ではまず見ることのない情景、つまり文庫本でヘミングウェイを読んでいた。
そして夏への期待や楽しみに思いを馳せながら向こうの景色を見ていた。

7月、ゲリラ豪雨。異常な暑さ。熱中症。
扉が開いた。
今まで経験したことのない暑さ、暑すぎる。
あまりの暑さで外に出られないから部屋に籠るしかない。
これじゃ夏の思い出などできないじゃないか。
この信じられないぐらい猛暑の中、怒りで道端にあるゴミ箱を蹴り上げた。
道端で昼寝をしていたビーグル犬が驚いて飛び起きて一目散に逃げた。
はっと我に返り愚かな振る舞いを心から恥じてビーグル犬に謝まりながら言った。
「あんなかわいい犬を驚かすなんて、、、暑さはここまで人間を駄目にするのか」
お気に入りのランニングシューズを履いていたKも走ってその場から逃げた。
犬と同じようにKも今は逃げるべき時なんだと思ったからだ。

ターミナル駅のホームの線路上を一人の女が歩き、電車が止まりそして遅延させる。その場にいてスマホを見ていた人たちが驚いて顔を上げ見ている。
女は確保され警察が理由を尋ねると「駅員の態度が悪かったから線路に降りた」
と全く理由にならない理由を吐いている。

若いビジネスマン同士が喧嘩をしている。スマホが肩に触れたとかどうでもいい理由で一本背負いを決めて駅のホームに叩きつける。
まさかこの前のオリンピックのJUDOに影響されたのではないと思うが。
そんなシュールな風景をかげろうの中に見た。
そんなことはお構いなしに日差しは容赦無く空からも、そして道路からも照り返して人々を攻撃してくる。
皆不機嫌でイライラしている。

白い雲がぽっかりと浮かんでいたのに街全体が厚い雲に覆われ、そして突然降り出した豪雨で車が行き交う道が一瞬で川になる。
優しかった空には稲妻が走り雷が鳴って落雷し電気もストップ、冷房も切れた。
地下に貯まった雨のせいで道路のマンホールの蓋が吹っ飛び人々は逃げ惑う。
夕立とかそんな生優しい雨ではない。まるで人を殺すために降っている空襲のようだ。
地下鉄の駅に大量の雨水が流れ込み階段が滝になり改札口が海になる。

雨に濡れて白いブラウスが透けて下着が見える女が不安そうな表情で見ている。
それはとてもエロティックな姿だった。

「今まで経験した事がないような観測史上最も暑い夏」、テレビのアナウンサーがわざとらしく不安そうに伝えるこのフレーズどおりの暑さ、豪雨。
20世紀末に大したことが起きなかった大災難が25年遅れでついにやってきて、この世が終わるとでも言いたげだ。
数年前に起きたコロナ禍での緊急事態宣言で街から人が突然消えたように、今まで思ってもみなかったことがない事が現実に起こると大いに混乱する。
それにしても最近は「思ってもみなかったこと」がしばしば起きている。
「こんなはずじゃない」と戸惑いながらいつかそれは普通の出来事になっていく。

この破壊的な雨をしのぐためKはカフェに入った。ほぼ満席だったが隅のほうの席に座り冷たいコーヒーを飲んだ。
店内にスタン・ゲッツの「Sweet Rain」が流れてる。出来過ぎた演出だが外で降っている雨は全くやさしくない。こんな曲をかけても慰めにはならない。
ところでこの曲はKが女と部屋でセックスしていた時によくレコードでかけていた曲だったのを思い出した。
レコードで聴くのが好きなマニアックなジャズファンだったからだ
Kはこの曲が好きだった。セックスに入り込むとだんだん音がフェイドアウトしていき、やがて完全に意識から消えていった。
曲が終わってレコードが波打ちながら針がジリジリと音を立てていても二人はかまわずセックスをしていた。あの針の音が二人を興奮させ、そして女が苦痛と快楽が入り混じった声をあげた後、身体を震わせて終わった。
あの時も豪雨が降っていた暑い夏だった。なんとなく将来に不安を感じていた。
ジメジメと暑い気候、不安、そんな時は女を抱きたくなるものだ。
こんな記憶を思い出したのは、駅の中の海にいた女の透けた白いブラウスから見える白い肌を見たせいだ。

8月、盆踊り。浴衣姿。風鈴。水撒き。
お盆も過ぎると蜩が鳴き始め、そろそろ日も短くなってくる。
小さい変化だけど新しい扉は少しづつ開き始めている。
秋の景色が見えてくる。差し込んでくる西日も新しい季節のそれだ。
今という過去の扉は少しづつ閉まっていき、別の扉が開いていく。
時はあっという間に過ぎ去る。
ローリング・ストーンズの曲に「Time Waits For No One」時は淡々と過ぎていき待ってはくれないという曲があったがあのイントロを聴くと切なくなってくる。
もうすぐ一生を終える蝉が木の上で笑ってる。
「おまえはバカなのか?」

もうすぐ9月、Kは今は使う人がいなくなって戸棚の奥に仕舞われていたあの女のコーヒーカップを取り出し久しぶりに暖かいコーヒーを煎れた。
身体のどこか奥底に眠っていた記憶も呼び起こしながら。


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