束の間の休息
気づいたらソファで朝を迎えていた。
10分だけ仮眠しようと思っただけだったのに、次に目覚めたら軽く5時間は経過していた。ソファで寝落ちすることはあれど、途中で目覚めずに朝まで寝てしまったのは初めてだったかもしれない。
アラームを気にせずにゆっくり寝ようと思っていただけにショックも大きい。こんな質の低い睡眠で朝を迎えるなんて、としばらくの間落ち込んでいたが、せっかくなので朝風呂を堪能することに。
すっかり忘れていたが、朝からゆっくりお湯に浸かるというのも、なかなか幸福度が高く幸せなことである。スーパー銭湯が家の近くにあった時は、朝風呂に惹かれてしょっちゅう通っていたことを思い出した。
風呂上がりのフルーツ牛乳もあれば尚良いが、そこまで贅沢は言えない。
祖母と伯父にそれぞれ頼まれていた用事があったが、台風崩れの温帯低気圧の影響が心配だったので、今日は断念。報告を兼ねて祖母に電話したら、残念がってはいたものの、施設に入ってから私との距離が近づいた気がすると、嬉しそうに言われた。
それはたしかにそうだと思う。
家族のサポートありきで入所した施設なので、かかりつけの病院に通院するにも、何か必要な荷物を届けるのも家族の役目だ。伯父が入院している以上、動ける家族は私しかいないので、必然的に会う機会も連絡をとる時間も増える。
祖母は自分のことは何一つ自慢できないから私のことを自慢したいとも言った。実は同じようなことを母から言われたこともある。
祖母も母も、私に自分がなれなかった何者かになることを期待しすぎるきらいがあり、私もずっとその期待に応えようとし過ぎていたのだと思う。他に子どものいない家族の中で育った分、良くも悪くも向けられた期待は想像以上のものだった。私にとってそれは当たり前の環境で育ったが、今になってふと思う。
もし、たくさんいる子どもの中の一人、孫の中の一人、甥姪の中の一人だったら、今みたいにはなっていなかったのだろうか。自慢されることもない、埋もれた存在だったとしたら背負う荷は少し軽くなっていただろうか。
それとも、もっと私を見て欲しいと不満に思いながら過ごすことになっていたのだろうか。
反対側のことはよくわからない。
でも、家族にはもっと自分の人生を生きて欲しいと思う。
それは私自身への自戒でもあって、介護する自分をアイデンティティにしてしまいたくない。これは私の一部であって全てでは無い、ということを忘れたくないのだ。