失って得た道を歩いていく
2020年の夏からの約1年は、今考えても激動だった。
今まで少しずつ積み上げてきたもの、安定した土台だと思ったものが一夜にして崩れ去ったり、音もなく消えてしまったり。
支柱がなくなって1人で立つことを求められて、ようやく自分の抱える弱さに気づいた。そんな1年だったと思う。戻りたいかと言われたら絶っっっ対に戻りたくはないが、あの期間がなければ今の私はいない。
数年前までの私は、幸せは多くのものを諦めた先にあると思っていた。矛盾しているようだけど、そう信じて疑わなかった。環境も対人関係も、妥協と我慢を重ねることでしか安定しないと思っていたのだ。
本当にそれでいいの?と訴えかける、心の声の存在はずっと無視していた。だってそうするしかない、って思っていたから。いい歳して、好奇心や向上心で動くなんてみっともないと思われるんじゃないか、とも思っていた。きっと多くの人は、ある程度の年齢で自分という人間の幅を見定めて、その中での妥協点を探していくんだろうと。
窮屈だけど、その中にある安心感みたいなものを幸せと呼ぶんだろうと思っていた。
ところが、幸か不幸か様々なものがリセットされたことでその思い込みもリセットされた。
今私が歩いているのは、数年前の私が諦めようとしていた方の道だ。この道を歩く未来があるなんて。
ましてやそれを何の躊躇もなく選べているなんて、今でもちょっと不思議な感じがする。
少し前に、結婚を機に仕事を辞めた同業の友人との会話の中で、キャリアを手放すことに躊躇いはなかった?と聞いた。
彼女の答えは「大したキャリアじゃないから別に」。
いともあっさり、それでいて確信めいた言い方だった。
その答えに、私にとっては諦めるという選択肢でも、彼女にとってはそうじゃなかったんだと驚いた。
だとしたら、私はやっぱり今歩いている道を歩き続けたいと思う。
私が歩こうとしていた道にいる人たちは、諦めの末ではなく、その道がいいと思っているのだ。そこに迷いはなくて、歩きたいから歩いている。もちろんそうじゃない人もいるかもしれないが、天秤にかけた末にそっちがいいと選んだはずなのだ。
そっちがいいと思えないのに、無理矢理道を変える必要はないだろう。そう思ったら胸を張って歩ける気がした。
舗装されてなくても、砂利だらけでも。
愛おしい今の道をこのまま歩いていく。