『いつかたこぶねになる日』~「漢詩の手帖」を読む
新聞の書評欄で知って気になったので、図書館で予約して読みました。
南仏ニース在住の俳人・小津夜景の著書で、各章が、一編の漢詩とその作品につかず離れずの絶妙な距離感のエッセイとで構成され、31本のエッセイが収められています。
とても印象に残ったのが、徐志摩による、この漢詩です。
※( )内は小津夜景さんによる日本語訳
再別康橋(ふたたび、さよならケンブリッジ)
軽軽的我走了(そっと僕は立ち去ろう)
正如我軽軽的来(来たときのように そっと)
我軽軽的招手(僕はそっと手をふって)
作別西天的雲彩(さよならする 西の空の雲に)
<中略>
那楡蔭下的一潭(あの楡の木陰の淵がたたえるのは)
不是清泉、是天上虹(清らかな泉ではなく天空の虹)
揉砕在浮藻間(浮き草のあわいでもみしだかれ)
沈澱着彩虹似的夢(沈んでゆくのは虹のような夢)
尋夢?撑<てへんに「掌」>一支長篙<たけかんむりに「高」>
(夢をたずねようか? 長い棹をさして)
向青草更青処漫溯
(青い草むらよりもっと青いところへと ゆるやかにさかのぼり)
満載一船星輝(舟いっぱい星をしきつめ)
在星輝斑斕<ぶんに門がまえに柬>裏放歌
(星明かりのなか 僕はうたう)
但我不能放歌(ただし僕は声を立てない)
悄悄是別離的笙簫(静けさこそ別れの調べなのだから)
夏虫也為我沈黙(夏の虫も僕のために口をつぐむ)
沈黙是今晩的康橋!(今宵のケンブリッジは沈黙の舞台だ!)
悄悄的我走了(ひそかに僕は立ち去ろう)
正如我悄悄的来(来たときのように ひそかに)
我揮一揮衣袖(僕はひらりと袖をふって)
不帯去一片雲彩(ひときれの雲さえ持ち帰らない)
漢詩本文の、日本語ではなじみのないものを含む漢字の連なりを眺めるのも面白いですし、小津さんの訳を声に出して読んでみるのもいいです。
「本物の翻訳はある種の『創作』である」とはよく言われるところですが、とても美しく、かつこなれた日本語訳ですね。
王国維や杜甫、白居易など有名な中国の詩人の作品だけでなく、新井白石や菅原道真、良寛、さらには夏目漱石、幸徳秋水と様々な時代の日本人の漢詩も取り上げていて、とても面白く読みました。
筆者の小津夜景さんは、この本の中で、詩というものの持つ特質について、次のように書いています。
「詩は日常にはじまり、人の心と共振しつつも、日常から超然と隔たった、言語ならではの透明で抽象的な砦をひそかに守っている。そしてその透明な砦のつれなさは、まるでからっぽの空のように、わたしを心底ほっとさせるのだ。
世界を愛することと、世界から解放されること。このふたつの矛盾した願いを漢詩もまた叶えてくれる。日常の扉から入り、いつしかすべてが無となる感覚を(中略)味わってもらえたらとても嬉しい」
なるほど、面白いですね。
この分析を踏まえて振り返ってみると、私も、詩や短歌だけでなく、小説やエッセイ、ドキュメンタリーなどを含め、本全般に関してまさに
「日常にはじまり、人の心と共振しつつも、日常から超然と隔たった、言語ならではの透明で抽象的な砦をひそかに守っている」
ような作品が結構好みなのかも…と思いました。
軽やかでいて滋味深い一冊です。