プロローグ
「物語は、いつからでも、始められる。
それが、人生でしょ?」
私が大好きな患者様の言葉だ。
私は、夜が朝に変わる、
曖昧な時間の空が大好きだ。
5時半。
夜勤明けの朝、
私は外のゴミ捨て場までゴミを捨てにいく。
看護師の仕事ではない。
だだ、私が外に空と外気に触れに行くことを
数人のスタッフは知っている。
そっと、廊下にある捨てやすいゴミ
を持って
私はゴミ捨てに行ってきまーすと声をかけ、
外へ行く。
一晩中院内に籠るのは、正直辛い。
時々、ゴミ捨て場でゴキブリと遭遇して、
ぎゃー!!
と発狂することもあるが、
それも目を覚ますスパイスにもなろう。
朝焼けは、どこまでも美しい。
色味は単色で、実にシンプルだ。
藍色が薄く滲んだと思ったら、すぐに朝がくる。
驚くほどにあっけない。
いくか。
朝6時。
夏菜子さんが目覚める時間。
夏菜子さんが夏菜子さんでいられる時間。
私は彼女の部屋に決まってこの時間に訪れる。
夏菜子さんは認知症だ。
直近での出来事は
すぐに忘れてしまうし、
時々妄想や、幻覚も見えてしまう。
手が出てしまうことすらある。
排泄を床にして、手で絵を描くこともある。
朝6時。
彼女は、きっと彼女が一番好きだろう姿
に戻ることが多い。
こんこんこん、
おはようございます。
声をかけて検温をする。
「今日は、第何章からにしますか?」
彼女の床を整えながら、私は話しかける。
夏菜子さんは、もともと大手の編集者である。
男性編集者しかいないような時代に、
数々のヒット作を生み出した敏腕編集者だ。
夏菜子さんは、この時間、編集者であった、
ご自身の記憶をたどりながら、
彼女の自分史の続きを作る。
認知症には、失書という症状がある。
文字が書けないのだ。
何度も、何度も同じ漢字の部首を書いてしまい、単語はおろか、
一文字も完成させることはできない。
夏菜子さんは、ゆったりと、
美しい日本語を話す。
同じ言葉を言ったりきたりしながら。
「人生は、私だけの物語。
私がいま、
起承転結のどこを辿っているか、
それすらも、よくわからない。
でも、楽しいのよ、
わからないことが、楽しいのよ」
お話ししながらも会話は時折とんちんかんで、
戻ったり、進んだりしながら、
自らの人生を語ってくださる。
医学的にも、
副交感神経から交換神経優位になる時間だ。
ゆったりとした、朝を迎える。
認知症は、落ち着いた環境、
リラックスした環境下では、
比較的穏やかに過ごせる時間帯もあるのだ。
ほんの数分間。
私が、夏菜子さんに割ける時間。
彼女が、彼女で、いられる時間。
何行か、自分史をレポート用紙にまとめて、
夏菜子さんに手渡す。
次の患者様のところへ向かわねばならない。
では、続きはまた、別の日に。
私は夏菜子さんに背を向ける。
「ねぇ、待って」
心にまっすぐ届く、はっきりとした口調で、
夏菜子さんの声が聞こえた。
思わず振り向く。
えっ?
「つらいことはね、
プロローグに美しく数行にまとめれば良いの。
あなたの自分史は、きっと、美しいと思うわ」
驚いた。目元がじんわりした。
彼女は、きっと、
私の何かを感じ取ったのだと思う。
私は看護師だ。
何か大きな義務感に
とらわれていたのかもしれない。
見守ってくれている人は、
いつだって、
たくさんいるのに。
ゆっくりお辞儀をして、
私はその部屋を後にした。
「空、今日はどうだった?」
声をかけてくれる人がいる。
きっといつも、
軽くて持ちやすいゴミを置いておいてくれる
介護士のサトちゃんだ。
「今日も、綺麗でしたよ、
よし残り3時間、いきますか!」
私は大きく伸びをして話す。
「バッチコーイ!!!」
サトちゃんは、
大きめの声で既に先を歩いている。
私はその背中をカートを持って追いかける。
つらいことは、プロローグに、
美しくまとめてしまおう。
物語は、どこから始めてもいいのだ。
それが、私だけの物語になるのだから。
あ。
私が、夏菜子さんの手がけた
本のファンであることは、
まだ彼女には秘密である。