源氏物語の話2 一人の女がぶち壊したもの

源氏物語っていつの話?/「更衣」って何?/后の不在/やってくれたな紫式部/帝の好きな姫君ランキング、ではない/まぁ俺は関白太政大臣だから/帝のお仕事/愛も性も公務の人生/排除される天皇/一人の女がぶち壊したもの


【以下文字起こし】

さて、今回はいよいよ源氏物語本文に触れてみましょう。冒頭は「いづれの御時にか」というフレーズから始まります。これがね、早速、ちょっと特殊なんですよ。何が特殊かって、昔むかしあるところに、って始まってないところが当時としては珍しい。竹取物語の冒頭を思い出してください。

「今は昔、竹取りの翁といふものありけり」だったでしょ。あるいは伊勢物語って作品もあったんですけど、あれはむかし男云々かんぬんて始まっていくんですよ。むかしむかしあるところに一人の男がおりまして、ってことですよね。つまり、源氏物語以前の物語作品ていうのは、何かこう漠然とむかしむかしあるところに的な語りだしで始まるっていうのがお決まりになっていたわけです。

だけど、源氏物語は「いづれの御時にかで」しょ。これ、どの帝が治めておられた時代のことだったでしょうか、くらいの意味なんですよ。すると読者はまるで実在したどこかの帝の時代のお話が始まったかのように思いますよね。

実際紫式部はいろんな登場人物にさまざまな実在の人物の要素っていうのをモデルとして溶かし込んでいるんですよ。だから読者はあれ、これって歴史上のあの時代のあの人のこと?ってチラチラ脳裏によぎらせながら読み進めることになる。そこがね、早速、ちょっと特殊で面白いわけです。

では、続きを見てみましょう。「いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに云々かんぬん」と続いていく。女御とか更衣が帝にたくさんお仕えなさっていたときます。ここでね、読者はちょっと気付く。女御も、更衣もどちらも帝の妻をさす言葉なんですけど、更衣は源氏物語が成立した当時、もう存在しない立場だったんですよ。

もうちょっと詳しく話してみましょうか。更衣っていう言葉はね、更衣室の更衣っていう字を書きます。これはもともと女官だったんですよ。女官ていうのは帝とか朝廷とかに仕えて仕事をする女性のことです。更衣の仕事は読んで字のごとく帝の服を着替えさせることでした。それがだんだん帝の妻を指す言葉になっていった。これ何か生々しいですよね。帝の身体に触れる仕事をしていた役職がそのまま帝の妻のポストを表す言葉になっていったわけです。

源氏物語が作られた頃の天皇は一条天皇っていうんですけど、更衣がね、あまたさぶらふなんて言われるほどたくさん存在した時代っていうのは、この一条天皇のひいおじいちゃんである醍醐天皇の時代くらいまで遡らなければなりません。だから、これ、ちょっと昔の話だなって読者は思う。まあ、時代劇とまで言ったら言い過ぎかもしれないですけど、自分たちの日々の暮らしからすると、ちょっと時代錯誤な感じだなっていう風に思った訳ですね。

ここまで読んで分かることがもう一つあります。それはこの帝にどうやら正妻はいないなっていうことです。もしいたら女御とか更衣の話をする前に、真っ先に中宮とか皇后とかあるいはまあ后宮っていうような感じの言葉が出てくるはずだからです。で、読者はそこから予想する。

これはきっと誰が帝の正妻になるのかってことが、物語上の一つの大きなテーマになるんだろうなと。でね、この続きがすごいんですよ。「いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれてときめき給ふありけり」と続く。

それほど高貴な身分ではない方で、だけどとりわけ深く帝から御寵愛を受けておられる女性がいたって感じなんですけど、もうね、これを読んだ瞬間に、平安時代の読者はテンションが一気に上がるんですよ。おいやべーぞやってくれたな紫式部っていうふうになる。

一方その頃令和を生きる我々はぽかーんとしてるわけでしょ。現代語訳読んでもはぁそうですかみたいにしかならないと。もうすでに勿体ないんですよね。1文目にして、すでに平安人と我々の温度差がやばいんですよ。全然楽しめてない。だから歴史とか古典教養の知識が要るんです。じゃないと作品の演出についていけないんですよね。

では解説してみましょう。二点、知っておいた方がいいことがあります。女御とか更衣とかっていうのは、帝の妻を表すってさっき言いましたね。これ女御の方がランクが上なんですけど、こういう帝の妻のランクは一体何を基準に決まると思いますか。帝に愛されてる順?

帝がね、毎週好きな姫君ランキングを週末に発表してトップ3に入った子はじゃあ来週から女御子みたいな? そんなね、気楽な世界じゃないんですよ、平安貴族社会っていうのは。

これ基本的には親の身分で決まります。平安初期と中期でかなり基準が違いますし、例外とかもあるんですけど、目安となるラインは大納言あたりですね。左大臣右大臣大納言という順番で、当時の貴族の政治家は偉かったんですけど、だいたいね、親父がこれくらいの地位を持っていたら女御になっています。

例えばですけど、源氏物語が書かれた時代よりも、1世代前の帝に花山天皇って人がいたんですよ。これ花に山と書いて花山です。この人が即位した時、当時の関白太政大臣が娘を入内させたんですよ。関白太政大臣ってさっきあげた左大臣右大臣大納言よりも、さらに上の権力を持つこともあるようなすごい高いポストなんですけど、そういうハチャメチャに身分の高い貴族が娘を帝の妻にしたわけですね。

その時彼は「俺は政治家のトップなわけですから、帝はあんまりうちの娘のことを愛してなさそうだけど、当然扱いとしてはいい扱いを受けるでしょうよ」っていう風に言ってる。そういう史料が残ってるんですよ。つまり、それが当時の常識だったわけですね。

あと、帝との間に生まれた子供の扱いっていうのも、母の家のランクと連動して決まります。女御が産んだ子供が臣籍降下された例は1例も存在しないんですよ。歴史上ね。逆に更衣が生んだ子供っていうのはしばしば臣籍降下された。いま臣籍降下何?って思った人は源氏物語解説の第1回を聞いてみてください。

逆に言うと、そういう順当な扱いとか寵愛をまんべんなく分配するってことが、帝の仕事だったわけですよ。世の中の政治を実際に動かしているのは、貴族たち官僚たちですからね。その人たちのパワーバランスを帝の一存でぐちゃぐちゃに崩すことはできないと。もしそんなことをしたら世の中が安定しないわけですから、それは帝にとって治世、世を治めるっていう使命を果たせなかったってことになるんですよね。

だから帝にとっては愛情とか、あと性ですね。子供を作るっていうことは公的な仕事だったんですよ。そう言われると帝ってね。何か世界で一番偉いはずなのに結構しんどい立場ですよね。ちなみに、この帝としての仕事をうまくこなした人として最も高く評価されていた人物の一人が村上天皇です。

一条天皇のお爺ちゃんにあたる人ですね。彼は非常にバランスよくみんなが納得できる順当な配分で、妻たちを寵愛したっていう風に言われています。逆に花山天皇はこれがダメだった。さっき紹介した太政大臣の娘を、彼はあんまり大事にせずに、他のいろんなところの姫君をとっかえその日の気分で好き勝手寵愛していたといいます。

で、結局ね、この花山天皇は貴族社会から排除されちゃうんですよ。帝の位を降ろされてしまうんです。まあ彼がね、天皇を退位させられた背景については、本当はもっと色々話すべきことがあるんですけど、それはまたいつか別の機会に譲りましょう。とにもかくにも今大事なのは、貴族社会にとって不都合な帝っていうのは排除されることすらあったってことですね。

だから、女性への愛も自由にならないし、帝というポストも決して安泰なものではないと。その息苦しさこそが実は摂関政治の前提であり、土台だったわけですね。

ここまでの知識を踏まえて、もう一度冒頭を読んでみましょう。いづれの御時にか女御更衣あまたさぶらひ給ひけるなかにいとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれてときめき給ふありけり。

果たしてどの帝が治めておられた時代のことだったでしょうか。大勢の女御や更衣がお仕えしていらっしゃる中で、身分はそれほど高くはないけれど、ひときわ深く帝から御寵愛を受けていた女性がいたと。で、ここまで読んでおいおい待てよってなるんですよ。当時の読者だったら、お前ら何かってに自由恋愛しとんねん、という風になると。

あんまり身分が高くないっていうことは、多分更衣が帝から愛されたって話なんですね。本来だったらランクが上の女御の方が帝から寵愛をたくさん受けるべきなのに、それをすっ飛ばしてランクが低い更衣の方がひときは深い寵愛を受けていたと。これやばいなってなるんですね。こいつは波乱の匂いがするぞっていう風に読者は思った。

さらに本文は、帝の異常な寵愛に対する周囲の反応っていうのを描いていきます。はじめよりわれはと思ひあがり給へる御かたがた、めざましきものにおとしめそねみ給。おなじほど、それをり下らうの更衣たちは、ましてやすからず。

これはね、何て言ってるかって言いますと、最初から私はそこそこいいランクの扱いを受けるはずだっていう風に思い上がっていた女御たちっていうのは、その帝から異常に愛されている更衣のことを、すごく目障りな女だなっていう風に蔑んで妬んでいたと。で、彼女たちよりもさらに下位のランクの低い更衣たちは、なおのこと心安からず思っていた、っていう風に書かれている。

こんな感じで周りの他の姫君のリアクションを書いてるわけなんですけど、これね実にリアルなんですよね。さっきも言ったように、帝の妻たちの序列っていうのは、親の身分によって本来決まってるわけですから、彼女たちの心の中にもね、ある程度の期待値があるわけですよ。まあ、私の家のランクでしたら、帝からこれくらいの重さで寵愛されますでしょうねってね。みんながそれぞれ思ってたと。

その期待をたった一人の身分の低い更衣がバキバキにぶち壊していくわけですよ。そりゃみんな我慢ならないですよね。元々がそこそこいいところの姫君たちですからね。屈辱なんですよ。面白いのは、どっちかっていうと、身分の低い姫君の方がより強く不満を抱いていたっていうところですね。寵愛を受けた更衣とおんなじぐらいのランクの人たちの方がより強く負の感情を抱いたって言うんですよ。この辺がね人間心理としてかなり生々しいものがありますね。

では、最後に一つ覚えておいてほしいことを言い残して終わりにしましょう。こうした周囲のリアクションからして、過剰に寵愛を受けた更衣の身が危ういってことは容易に想像できますよね。女性社会のドロドロした感じが、きっとこのあときそうですよね。

それと同時に、これ帝もヤバイだろって、多分当時の読者は思っていた。繰り返しになりますが、源氏物語が描かれる時代の直前に花山天皇が排除されてますからね。そういうことは普通に起こりうると、誰もが知っていた。だからこそ、この冒頭は非常にスリリングであり、魅力的なんですね。帝と更衣の行く末が気になるところですが、今回はここまでにしておきましょう。ではでは、また次回。


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