源氏物語の話23 夏の幻
第二帖「帚木」11/母と似た女性/弟を籠絡/見し夢をあふ夜ありやとなげく間に目さへあはでぞころも経にける/源順/恋しきを何につけてか慰めむ夢だに見えず寝る夜なければ/物語の主導権/「できる」けど「しない」/今度は不意打ちじゃない/帚木の心を知らで園原の道にあやなくまよひぬるかな/園原や伏屋に生ふる帚木のありとて行けど逢はぬ君かな/坂上是則/消える幻/数ならぬ伏屋に生ふる名のうさにあるにもあらず消ゆる帚木/どうしようもない二人
【以下文字起こし】
源氏物語解説の第23回です。帚木の解説としては11回目になります。
前回はとうとう、光源氏の具体的な恋愛エピソードを読みましたね。お相手は、故中納言兼衛門督の娘。現在は、伊予介の後妻に納まっていた女性です。
源氏物語のヒロインたちって、本文中で誰かに呼ばれたわけじゃないけど、後世の読者たちがつけた便宜上の名前っていうのがありまして、たとえば葵上なんかもそうなんですが、今回光源氏と関係を持ったあの女性のことは、一般的に「空蝉」という名前で呼びます。
なぜそういう風に呼ばれるようになったのか、由来がわかるのはもうちょっと後のことなんですが、とにもかくにも便宜上、ここからは彼女のことを空蝉と呼んでいきますね。
彼女の面白いところであり、切ないところは、中納言の娘として、かつては桐壺帝への宮仕えを目指していたところでした。けれど結局、父の死によって当初の志は潰え、生活を維持するために老いた受領の妻となり、夫のことを内心軽蔑することでどうにか自尊心を維持する日々を暮らしていたと。
前回気付いた人もいると思いますが、空蝉の設定って、光源氏の母親である桐壺更衣と一部重なるんですよね。どちらの家庭も娘の入内が悲願だったわけですが、桐壺更衣の場合は、父が死んでもなお意志を貫き、自身の命と引き換えに、光源氏という皇子を世に残しました。
桐壺の帖だけを読むと、更衣の死は、ある種の悲劇に見えます。けれど続く帚木の帖まで読むと、入内を敢行しなかったとしても、父を失った姫君には零落の未来しかなかったことがわかる。
これは逆も然りです。空蝉は落ちぶれた我が身を嘆くことしきりですが、仮に彼女が宮仕を実現できていたとしても、果たしてそれが幸せな人生だったかは定かじゃありません。
死んだ大納言の娘だった桐壺更衣が更衣止まりだったわけですから、死んだ中納言の娘である空蝉だって当然、大した身分は望めなかったでしょう。貴族社会って本当、果てしのない縦社会ですから、中納言だって十分立派な公卿の位なんですけど、それでも、大臣家の面々と比べると一枚落ちるんですよね。
そんな立場の空蝉が、桐壺帝にちゃんと認知されてたってどういうこと? という文学的疑問もありまして、空蝉の家って実は、もともとは皇族だったんじゃない? と考える論考もあります。そういうことまで追究し始めると、本当もうキリがないんですけど、このキリのなさってつまり、どこまでも我々の知的好奇心を刺激し続けてくれる奥深さでもあるので、勉強すればするほど、難しいけど魅力的な作品だって思いますね、源氏物語は。
ではでは、そろそろ本文を読んでいきましょう。
あの夜の後、光源氏は基本的に、左大臣邸で日々を過ごしていました。ただし当然、心の中ではずっと空蝉のことを考えていて、あれ以来音信不通の関係だから、今頃どれほど辛い思いをしているだろうかと、気の毒に感じている。
このあたり、彼の若さが出てるというか、まぁ、何が正解かもわかんない状況ではあるんですけど、光源氏としては、あぁやっぱりあの方は本気じゃなかったんだな、って女性の側に思わせてしまうことが気の毒だ、って感覚なんですよ、多分。だから、なんとかして手紙を届けたり、もう一度会いにいったりしてやりたいと考えている。
そこで彼、一計を案じて、紀伊守を呼び出すんですね。そして、「先日出会ったあの、中納言兼衛門督の息子を、私に任せてくれまいか」と提案します。つまり、空蝉の弟ですね。ちなみにこの子は、作中で「小君」と呼ばれます。小さい君と書いて小君ね。
「可愛らしく見えたから、側で働かせたい。帝にも、私がお目にかけよう」と光源氏は続けます。これ、意味わかりますか。童殿上させてあげようって言ってるんですよ、小君を。帝の息子である光源氏にはそれができる。
こういうところがねー、この頃の彼の、無邪気にえげつない部分ですね。そしてそれは、源氏物語っていう作品そのもののえげつなさでもある。
光源氏は知ってるわけですよ。父親を失って零落したせいで、小君が殿上童になり損なっていることを。けれど自分の権力を使えば、そんな願い叶えてやるくらい容易い。だから彼は、さながら温情をかけるかの如く小君を引き取ることで、姉である空蝉との接点にしようと目論んだわけですね。
「いとかしこき仰せ言にはべるなり」と紀伊守は応じます。まことに恐れ多いお言葉です、みたいな感じですね。続けて彼は、「ご意向を彼の姉に伝えてみましょう」と言った。
ここで光源氏はどきりとするんですが、それは表に出さず、なるべくさりげない調子で、「その姉君は朝臣の弟妹(おとうと)やもたる」と尋ねました。「その姉君には、あなたの弟や妹がいますか?」という意味で、要するに、伊予介と空蝉の間に子供はいるのか? という探りを彼は入れている。
これに対して紀伊守は「さもはべらず」と答えます。それはいませんって言うんですね。二人が連れ添って2年ほどになりますが、死んだ父親の意向に反するような身の上を辛く思って、不満げに日々を過ごしているようです、と彼は説明しました。空蝉は伊予介に全然心を開いてないから、子供ができるような余地もないらしいと。
光源氏は続けて、「彼女はかなりの美人だと評判だったが、あの噂はまことか?」と問いました。これに対して紀伊守は、「けしうははべらざるべし」と返します。「まぁ悪くはないでしょう」くらいの返答です。ちょっと歯切れが悪いですけど、そもそも根本的な問題として、紀伊守自身も、空蝉とは大して親密じゃないんですよね。彼女って新しい家族にはずっとよそよそしいし、紀伊守は紀伊守で、息子が父親の後妻と親しくするのはトラブルの元だっていう社会通念に阻まれて距離を詰めかねていました。
そうして数日後、紀伊守に伴われて小君がやってきます。流石に光源氏のような非の打ちどころのない男子ってわけにはいきませんが、生まれの良さを感じさせる上品な物腰をしています。
光源氏は彼をそば近くまで召し寄せ、親しみを持って接しました。あの光源氏様がこんな応対をしてくれるなんて! ということで、小君は幼いながらに感激します。
でもこれ、光源氏としては下心を持ってやってることですから、会話の流れを段々と小君の姉に関する話へ誘導していくんですね。で、彼としては最終的に、小君のことを恋のメッセンジャーにしたいんですよ。手紙を運んだり、彼女のところへ再度尋ねる手引きをしてほしい。
してほしいんだけど、小君自身があまりに純粋無垢で落ち着いてるもんだから、気まずくって言い出せませんでした。
ここ、ちょっと面白いんですよね。普通、男性が姉について根掘り葉掘り聞いてきたら、あ、この人うちの姉となんかあるのかな? って勘ぐりそうなものなんですが、このときの小君は、まだそういう発想がないわけです。
ただ、この無邪気さっていうのは光源氏にとって悪いことばかりでもなくて、取り繕った適当な嘘でも信じてもらえる、というメリットもありました。
なかなか言い出せなかった光源氏も、やがて意を決して、小君に手紙の仲介役を頼んだんですよ。ただ、そのとき彼嘘ついて、多分、あなたの姉君と私は、以前から密かな恋仲だったのだ、みたいな出まかせを、やんわり伝えてるんですね。それを小君は驚きながらも素直に信じて、「へー、そんなことがあったんだなー」ってぼんやり納得している。それ以上深く詮索することもありませんでした。
一方、弟のちょっと極端な呑気さに比べて、空蝉という女性が抱える苦悩はリアルで重い。小君が光源氏からの手紙を運んできたことに対して、「女、あさましきに涙も出できぬ。」と、本文中には書いてあります。あまりのことに涙が出てきたっていうんですね。この「あさましき」って単語が表そうとしている微妙なニュアンスは、彼女の立場に立って考えるとなかなか辛い。
弟の小君が光源氏に召し出されたことは当然空蝉も知っていました。彼の引き立てによって童殿上が叶いそうだということも聞き及んでいたでしょう。ただそれだけでも、平安貴族社会の圧倒的な身分差を痛感して、空蝉からすると複雑な思いだったはずです。
それに加えて今、弟が光源氏のメッセンジャーに仕立て上げられたことを知った彼女が、どんな気持ちで涙を流すかって話なんですよね、これは。世間一般的には醜聞と言うべきあの夜について、弟にどこまで話したんだ、って思いもあっただろうし、目をかけてもらう代わりに都合よく利用されるという、わかりやすく惨めな境遇に自分たちが飲み込まれていくことへの絶望すらあったかもしれない。
そして、光源氏がそうまでして自分を求め続けていることに対しても、彼女の心中を思うと、筆舌に尽くし難いものがあります。
光源氏からの手紙には、たくさんのことが書いてあったようです。具体的な内容は省略されていますが、彼なりに精一杯言葉を尽くしたのでしょう。末尾には和歌も添えられていました。
「見し夢を あふ夜ありやとなげく間に 目さへあはでぞ ころも経にける」
あの日の逢瀬を夢とたとえつつ、再び現実に逢える夜があろうかと嘆き過ごす間に、眠れぬ日々が過ぎていったと詠んでいます。
興味深いのは、和歌の後に一言、「寝る夜なければ」と添えられていたことですね。音だけで聞くとわかりづらいかもしれませんが、「ぬるよ」というのは、「眠る夜」という意味です。
これは、源順という、かつて実在した大歌人の歌からの引用になっています。「恋しきを 何につけてか慰めむ 夢だに見えず 寝る夜なければ」という歌で、こっちの方がわかりやすいですね。あなたに対する恋しさを、何によって慰めたらよいでしょうか。苦しさのあまり夜も眠れず、夢さえ見れないなかで。みたいな歌です。
こういうフレーズを手紙に書くってことは、一部だけ引用しておけばあとは理解してくれるだろうっていう、相手の教養への信頼が表れてるんですよね。そして実際、空蝉にはこれがわかった。
「目も及ばぬ御書きざまも霧りふたがりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひつづけて臥したまへり。」と本文には書いてあります。
光源氏からの手紙はまばゆいほどに立派な筆跡で、涙に視界が曇る。当時って、面と向かって話す時間よりも相手からの手紙を見つめてる時間の方が長いような世の中ですから、手紙の美しさや立派さが、ほとんどそのまま相手の美しさや立派さなんですよね。だから空蝉は今、手紙を通して光源氏に出逢い直し、その美しさに涙しているわけです。
そうして彼女は「心得ぬ宿世うち添へりける身」を思う。宿世っていうのは前世からの因縁のことです。「思ひつづけて臥したまへり。」と続きますから、思いも寄らない己の運命に思い悩んで寝込んでしまったっていうんですね。
すると弟の小君は困る。彼は光源氏のメッセンジャーですから、姉に返事を書いてほしいわけです。ところが当の空蝉は、「かかる御文見るべき人もなしと聞こえよ」と、とりつく島もありません。こんなお手紙をいただけるような相手はおりません、くらいの返答ですね。
それに対して小君は、そんなお返事申し上げられましょうかと食い下がる。だって私は、光源氏様からちゃんと聞きました。間違いなくお姉様のことをおしゃっていました。とね。
残酷なのは、このとき小君が笑顔で笑っていたことです。またまたご冗談を、みたいな感じなんですよ。人違いなわけないじゃないですか姉上って無邪気ににこにこしてる弟とは裏腹に、空蝉の心は鋭く過敏になっていきます。
光源氏はあの夜のことを全部話したのだろうか。そう思うと泣きたくなってくるし、自然と口調も不機嫌になります。
「いいえ。そんなマセた口を聞くのはおよし。返事がないのが不都合なら、あちらへ伺うのをおやめなさい」と空蝉は言うのですが、これはいささか感情的に過ぎますね。小君の方も、「あの光源氏様からお呼び出しがあったのに、無視できるわけないじゃないですか」と戸惑っています。
空蝉だって、ここで小君と光源氏のつながりを絶ってしまったら、童殿上の機会を、ひいては、貴族社会における弟の前途を根本的に絶ってしまうことになるんだってことは、理解していたはずです。それでもいいって短慮を起こせるほど浅はかな女性ではないから辛いわけで、ここの台詞っていうのは、なんというかまぁ、一時的な八つ当たりなんですよね。
結局手ぶらで参上した小君に対して、光源氏はわざとらしく恨み言を言って見せます。「私は昨日一日中あなたを待っていたのに、そちらが私へ抱いている思いは軽いようですね」と。これはまず、報告に来るのが遅いことに対する非難ですね。さらに、小君が顔を真っ赤にしながら姉の様子を伝えると、「頼みがいがなくて呆れた」とコメントしています。
これ、まるで小君ばっかりが役立たずで悪いみたいなリアクションですけど、こうなることが予想できなかった光源氏も未熟なんですよ。だって、空蝉の気持ちとか、小君の幼さとかを考えたら、すんなり上手くいくはずないじゃないですか。そういう現実をどこまでちゃんと認識していたのかよくわかんないですけど、光源氏は引き続き、メッセンジャー小君作戦を続行します。
新たな手紙を預けながら、「あこは知らじな」と彼は言いました。あなたは知らないだろうなぁ、くらいの意味なんですが、このあと彼、小君に何を吹き込むかって言いますと、「私は伊予介より昔から彼女と出会っていたんだ」っていう新たな設定を披露するんですね。そして、こっちがまだ若くて頼りないから、金にだけは困らないあんな夫を見つけてきて、こうやって私のことを侮っているんだ、と、嘘八百な被害者意識を並べ立てました。これをまた、小君は信じて間に受けるんですよね。で、へーそうだったんだー、こりゃたいへんだなー、みたいな顔するもんだから、この子は面白いなって、光源氏は内心思った。
で、ここが彼のいいところなんですけど、光源氏って、ほんとにちゃんと、小君を貴族社会へデビューさせてあげるんですね。宮中へも連れて行ったし、自分が服を仕立てているところに依頼して、装束の用意なんかも世話してやった。小君の立場から考えると、ほんとに感動的で、ドラマチックな変化だったと思います。人生のね。
だから彼は、恩返しのために何度も手紙を運んだ。けれどそれが、空蝉には怖いんですね。幼い弟のことだから、何かの拍子に人目へ触れるかもしれない。もしもそんなことになったら、軽薄な女だと世間から思われるでしょう。ここ、本文は「軽々(かろがろ)しき名さへとり添えむ」と書いてあって、副助詞「さへ」が使われてるんですよね。これ、AだけじゃなくBまでも、というニュアンスを出しますから、もともと既に、世間で嫌な噂を立てられている、という彼女の自意識が窺われます。おそらくは、父の死によって受領の後妻に収まったことを指すのでしょう。
光源氏も彼女のことを「気位高く構えている女らしい」と認識していましたから、そういう噂が結構盛んに飛び交っていたんだと予想されます。そんな自分が、若い貴公子と密かに交際してるだなんて思われるわけにはいかない、と彼女は恐れている。
「めでたきこともわが身からこそ」と書いてあって、これちょっと難しい表現だと思うんですが、一般的には、「もったいなく素晴らしいことも、自身の身の上が伴ってこそだ」くらいに理解されていますね。つまり、光源氏からアプローチされるということは本来とんでもなく素敵なことなんだけど、自身の身の上が不味いせいで、素直に受け入れることができない。と書いてあることになります。
このあたりの葛藤を読むと、こういうどうしようもない苦しさを描くために、光源氏という主人公像が造形されたんだなってことを、感じますよね。彼が空蝉にやったことってすごく強引で無神経だから、まぁクズだクズだと世間で謗られてるわけなんですけど、どっちかっていうと、絶世の貴公子という強すぎる光に突如照らされることで、己の現実をまざまざと突きつけられてしまう、空蝉という女性の極めて人間的な苦悩の方にこそ、物語の主導権があるように思われます。
彼女、このあと、あの夜に見た光源氏の姿の素晴らしさっていうものを、つい思い出してしまうんですよね。多分その瞬間、彼女の心にふっと魔が差している。けれど、だからといって、ここで光源氏に気の利いた手紙を返したところで、何がどうなるわけでもあるまいと、改めて自分に言い聞かせています。
やろうと思えばできるんですよ。入内を目指して養育されてきた彼女には、古い有名な和歌に対する教養がたくさんあるから、光源氏がそれとなく引用してくるフレーズも全部わかるし、逆も然りで、相手を知的に喜ばせるような返事だってきっと書ける。
だから彼女は、「しない」って選択を、自分の意思で下さなければならない。できないんじゃないくて、できるけど、しない。そこに彼女の、苦悩と尊厳と、意思の美しさがあるわけです。
その後も光源氏からのアプローチは続きます。彼はどうにかしてもう一度空蝉に会いたかったんですが、軽率に近づいたら彼女にとって気の毒なことになると思って、身動きが取れませんでした。で、結局彼はどうしたかっていうと、前回と同じような都合のいい方塞りの日を待って、それを理由に再度紀伊守邸を訪れることにした。
当然、小君には上手く内通するよう命じてあります。加えて空蝉にも、今晩訪ねる旨を記した手紙を送っておきました。今度はもう、不意打ちじゃないんですよ。だからやっぱり、彼女は自分で選ばなければならない。
何度も何度も手紙をくれて、ずっと機会を待ちながら、こうして再び会いにきてくれた。そこまでされたらもう、本気なんだな、浅い気持ちじゃないんだなって認めざるを得ない。
けれどだからといって、ここで心を許したら、我が身の見すぼらしさに耐えかねて、再びあの夜と同じ苦しみを味わうことになるだろう、と、彼女は思い悩む。
「なほ さて 待ちつけきこえさせむ ことの まばゆければ」と、本文には書いてあります。「まばゆし」って単語は、眩しいくらいに美しく素晴らしいとか、そう思わせるような相手と比べた際の自分が恥ずかしくて気まずい、みたいな意味ですから、つまりこれ、光源氏は手紙で、今晩会いにいくから待っててくださいねって言ってきてるけど、自分みたいな釣り合わない人間が馬鹿正直にそれを待つわけにはいかない、って感性なんですよ。
結局彼女は、適当に理由をつけて身を隠すことにしました。避難した先は、例の「中将の君」という女房が使っている部屋です。
一方の光源氏は、お供として付いてきた者たちを早々に休ませて、空蝉宛に再度手紙を出しました。ところがメッセンジャーの小君は、行方をくらました姉を見つけることができない。家中方々訪ね回ってようやく彼女を発見した小君は、失望した、今にも泣き出さんばかりの顔で、「光源氏様は私のことを、なんて役立たずだとお思いになるでしょう」と訴えました。
しかし空蝉は、幼い子供がこんな取次ぎをするものではないといって彼を叱りつけます。そして、「先方には『気分が悪いからマッサージさせている』と申し上げなさい。」と言いつけて、追っ払ってしまいました。
空蝉って、光源氏に利用されるようになった弟に対しては終始こんな感じなんですが、その実、心の中は揺れていて、「いとかく品(しな)定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれる古里ながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし」と書いています。
こんな風に、身分が定まってしまう前の、世を去った父の面影がまだ残る実家で暮らしていた、あの頃の私が、たまの訪れをお待ちするような関係だったならば、どんなにか趣深く、幸せだったろうか、と彼女は思う。以前、光源氏の前でも、同じようなことを言っていましたね。
このあたりの感覚は、丁寧に読まないと、現代人の我々にいまいちピンとこない。正妻になりたいとか、毎日愛されたいとか、そういう欲張りを言ってるわけじゃないんですよ。時々でいいし、一番じゃなくてもいいから、ただ、中納言の娘として、彼と風流な恋をしたかった。受領の後妻じゃない自分として光源氏と向き合いたかったと、彼女は思っている。
でも、これは残酷な皮肉ですよね。だって、光源氏はそもそも、彼女が零落した中流階級の女性だったから興味を持ったわけじゃないですか。そうでなければ二人は出会っていない。
しかし、そこまでの事情は彼女も知りませんから、自分は分不相応な相手に愛されて、にもかかわらず、烏滸がましくもそれを無視してる、って認識なんですよね。だからきっと、光源氏は自分のことを、身の程知らずな女と思うだろうって、恐れ、悔やんでいる。
それが彼女は切ないんですよ。拒絶しようって決めたのは自分なんだけど、そのせいで光源氏にどう思われるか想像すると胸が痛い。ただ、本文には「今は言ふかひなき宿世なりければ」とも書いてあって、要するに、今となっては何を言っても詮ない運命なのだから、と割り切って、つまらない女を貫くことにします。
一方その頃、光源氏は、小君から期待外れの報告を受け、「身もいと恥ずかしくこそなりぬれ」と意気消沈していました。ここまでしたのに私を拒むのか、これでは面目丸潰れだ、って落ち込んでるんですね。
現代的な感覚で言えば、勝手に押しかけてきて関係を迫る光源氏怖って話になるんですが、源氏物語的には、最初の夜と今回は結構明確に区別されてて、このときの空蝉の判断について、「あさましくめづらかなりける心」って書かれてるんですよ、地の文で。それはないだろって思うくらい世にも珍しい頑なさだって意味です。
つまり、光源氏が強引なのはもちろん間違いないんだが、とは言え、彼にここまでされて、それでもなお拒むっていうのは、当たり前のリアクションではないんですよ、おそらく。そういう、自身の経験や予想を超えてくる精神性に対して、ちょっと感心してるニュアンスもありますね。彼女の気高さを見積り損ねてのこのこ逢いにきてしまった我が身を恥じてるわけです。だから彼、しばらく何にも言えなくて、ひたすらため息ばっかりついていました。
で、ここで面白いのは、光源氏がこの瞬間に、改めて、あぁ私は彼女の心がわかってないんだなって、痛感したことなんですよね。そこで彼は、こんな歌を詠みます。
帚木の 心をしらで その原の 道にあやなく まどひぬるかな
ここでようやく「帚木」って言葉が出てきたわけですが、これを理解するためには、光源氏が参考にした歌を紹介しなければなりません。
園原や 伏屋に生ふる帚木の ありとて行けど 逢はぬ君かな
という歌がありまして、これは坂上是則という人の作です。宇多天皇あたりの時代に実在した歌人で、百人一首にも歌を取られていますね。
園原とか伏屋というのは今の長野県、信濃国の地名です。特に園原って場所は結構な名所だったらしく、枕草子にも取り上げられています。
そこに帚木という、箒みたいな形をした木があるって言い伝えられてるわけなんですけど、この帚木は、近づくと消えてしまう幻らしいんですよ。砂漠の蜃気楼みたいな感じなんでしょうね、多分。
で、坂上是則はこの帚木を比喩的に用いながら、逢いにきたのに逢ってくれない女性のつれなさを歌い上げています。光源氏はこれを踏まえたわけですね。改めて彼の歌を読んでみましょう。
帚木の 心をしらで その原の 道にあやなく まどひぬるかな
姿を消してしまった空蝉を帚木に喩えながら、その心を知らない、わからない自分は、帚木につながっていたはずの園原の道で空しく迷っています、と彼はいう。そして、これ以上はもう、何も申し上げようがない、と書いて、その手紙を小君に託しました。
受け取った空蝉は、多分最初、無視して眠ろうとしたんだと思うんですけど、結局眠ることなんてできなくて、次のような歌を読み返しました。
数ならぬ 伏屋に生ふる 名のうさに あるにもあらず 消ゆる帚木
この歌は結構情報量が多くって、まず、すぐに気づくのは、彼女もまた、坂上是則の歌を踏まえてるってことですよね。これは彼女の教養深さをよく表しています。光源氏は是則の歌から「帚木」「園原」ってフレーズを拝借したわけですが、空蝉は「伏屋に生ふる」という部分を引いています。
「伏屋」というのは信濃の地名だとさっき説明しましたが、この単語には「みすぼらしい家」っていう一般名詞的な意味合いもあるんですよね。つまり彼女は、ものの数にも入らない貧しい家に自分は生きていて、そういう社会的現実が辛いんだ、と言っている。
本当に貧しいわけじゃないですよ、受領の家ですからね。だけど、上流貴族と比較したら相対的に低い身分なわけですから、そういう立場に零落した我が身が辛いというわけです。
加えて、この「伏屋」という単語には、旅先での寝床、というニュアンスもあるだろうと指摘する意見があります。するとどうなるかって言いますと、光源氏にとって紀伊守邸っていうのは、ふらっと立ち寄った仮の宿に過ぎなかったわけですよね、当初。「女遠き旅寝はもの恐ろしき心地すべき」みたいなセリフもあったじゃないですか。
つまり「伏屋に生ふる」ってフレーズの奥には、ふらっと立ち寄っただけの男と一夜を共にさせられてしまうような身の上なんだ今の自分は、それが辛いんだ、というメッセージを読み取ることもできるわけです。これがアンサーになるんですよ。わかりますか? 光源氏はさっき、自分の歌の中で、「帚木の心を知らで」って詠んでたじゃないですか。あなたの気持ちも知らないまま近づこうとしてしまった、って言ってる彼に対して空蝉は、零落してしまった身の上と、それに対する社会の眼差しが辛いんだ、そしてそれは、他でもないあなたが、私に突きつけ、痛感させたことなんですよと答えています。
だから多分、本当もう、どうしようもないんですよね、この二人って。惹かれあってるんですよ?お互い、それぞれの形で。けれどそれは、炎と花が恋をしているようなもので、もうこれ以上近づきようがないんですよ。
上の句だけでもここまで考えさせられますが、彼女の歌の下の句はもっと切ない。
「あるにもあらず 消ゆる帚木」とありますよね。いたたまれずに消えていく帚木なんだ自分は、って言ってるわけですが、この場合の「消える」って言葉は、単に今、光源氏の目の前から消えたことだけを指してるわけでは、ないですよね、多分。もっと広い意味で、自分の人生は、こうやって、零落した身の上を憂いながらひっそり終わっていくしかないんだって、彼女は言っている。そういう、悲痛な諦観が窺われます。
こんな悲しいこと、言わせてあげるなよって話じゃないですか。光源氏が自分を帚木に喩えたとき、そっか、私は帚木かって、思ったんですよね、彼女。確かにそうだ、消えていくしかないってね。
光源氏の歌だけとると、そこには彼の成長の兆しみたいなものが見えるんですよ。この人はどうやら、自分勝手なアプローチでどうこうできる相手じゃないぞって気づいて、意思のある一人の人間として、その内面に思いを馳せ始めていますよね。でも、そうやって彼が手を伸ばし、心に触れようとしたことが引き金となって、彼女はより一層遠のいていってしまう。このすれ違い、どうあっても埋まらない隔絶にこそ、二人の恋の本質があるように思われます。
その証拠、というのも変な話ですが、空蝉の和歌を受け取った光源氏のリアクションって、ちょっとズレてるんですよね。「人に似ぬ心ざまのなほ消えず立ちのぼれりける」って感じてるんですよ、彼。これどういうことかっていうと、「落ちぶれた我が身への世間の眼差しが辛いから、私はこうして消えるのです」なんて歌に詠んでいるけれど、彼女の類まれなる気位の高さは消えるどころか依然として立ち上ってくるじゃないか、と思って、彼は腹を立てた。そして、だからこそ心惹かれるんだよなー、となって、物語は続いていく。
でも、彼女が光源氏を拒んでいるのは気位が高いからかって問われると、それはちょっと違うんじゃないかと個人的には思います。いろんな注釈書を読んでると、空蝉はプライドの高い女性だってしばしば書かれてるんですけど、別に彼女って、私は中納言の娘だったのよ! って思って、光源氏を拒んでるわけじゃないですよね。むしろ、もう中納言の娘じゃない自分を強く自覚すればこそ、流されず絆されず、己を保ってるんですよね。
それを気位の高さだって受け取るのは、光源氏の未熟なんじゃないかって、個人的には感じていて。だから多分、紫式部って意図的に? このときの光源氏では、彼女に追いつけないようにしてるんじゃないかと思います。
この二人の関係って、いきなり身体的な接触をもつところから始まるじゃないですか。だけど光源氏って、彼女のことを全然つかめないんですよね。ずーっとそうなんです。彼は多分最後まで、空蝉って女性を捕まえ切ることができない。それって彼にとっても彼女にとってもすごく寂しいことだと思うんですけど、そこになんだか、逆説的な美しさがあるんですよね。たった一夏の、短く儚い物語です。
でもこれは、少し、私の解釈が入り過ぎていますねー。だからぜひ、各自で一度本文を読んでみてほしいと思います。実は、これで終わりなんですよ、帚木の帖って。このあと、空蝉、夕顔っていう章段が続いて、そこでも光源氏たちの関係性は描かれ続けるんですけど、この帚木でのやり取りが、一番繊細で、読み応えがあると思います。
その分、解釈の揺れる部分も多いんですよね。和歌の捉え方も含めて、今回語った光源氏と空蝉の関係性っていうのは、どうしても私の解釈が入ってしまっているので。自分なりの読み方を確かめたい人は、ぜひ本文を読んでください。なっがいですけどね、帚木。雨夜の品定の下りがありますから。でもやっぱり、あそこで男たちの言動や眼差しを読まされた後に登場するからこそ、空蝉というヒロインは輝きますね。彼女はこの後、どうなっていくのでしょうか。
ではでは、お疲れ様でした。また次回。