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【読書感想文】~あるいは差別について~『破戒』を読んで~
島崎藤村の『破戒』を読んだ。忙しい中をぬってだったが、逆にじっくり時間をかけて読むことができた。
穢多である主人公が、ずっとその身分を隠して教師をしているが、解放運動家の死をきっかけに「ずっと身分を隠せ」という父の戒めをついに破ってしまうという話である。
歴史で穢多・非人などは習って知っていたものの、その実情、いったんその身分に生まれついたからには、その差別がいかほどか、そしてその身分を知られるということはすなわち死を意味するくらいの恐ろしさだったのだということに激しく胸を揺さぶられた。
小説中には長野の美しい風景が情緒豊かに描かれる場面も多々あり、4回ほどしか行ったことのない長野の山々や高原などを思い浮かべながら、しばしうっとりする箇所もあった。
解説を読んで驚いた。枯山水・銀閣寺の庭などを作ったのは、いわゆる「河原者」である善阿弥、その他能楽を大成した観阿弥・世阿弥など、これらの人々は、蔑視される屈辱を逆手にとって、一芸を磨きあげ、日本の文化に貢献したということである。
差別用語等が多々出てくるため、初版は改訂された。そうして言い換えられた文言や文章の例を見ると、膨大である。
だが今、穢多なら穢多とはっきり表現するこの本を読めてよかった。差別用語は差別意識があるから差別用語になってしまう。そもそもここに穢多と書くにも「えた」では変換が出てこない。「ひにん」もまた然り。
内容について云々言えるほどの知識もないが、私の母方の家が士族であったこと、逆に父の出身の沖縄ではいまだに部落意識から完全に抜け出ていないことを同時に思うと、やはり現代にもいわゆる「部落差別」もしくはそれに準じた差別が残っているのだろうな、と思った。祖父(母方)は士族であったことを死ぬまで自慢し続け、父と母の結婚の際には当然ながら猛反対した。
差別用語といえば、最近、差別の方向性が拡大されているのか、縮小されているのか、よく分からない。例えば、大学院在学中に、教授の出す本のために、ギリシャ語翻訳を手伝ったのであるが、教授は「狂気の神なんて訳しても、出版社に差別だからだめだと言われて、書き直しだ」なんておっしゃっていた。
いわゆる精神疾患関係でも、その病名などはだいぶ言い換えられるようになっている。だが、中身は同じじゃないか、と思う。何度も言うように、差別意識があるから差別用語に対して敏感になる、ということではないのか。