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あなただけのCPU
映画やドラマやアニメなどの映像作品を倍速視聴したことはあるだろうか。動画配信サービスによっては標準で搭載された機能になっているものもあるらしく、当たり前のように使っている人もいるだろうが、私は嫌いだ。理由は創作物への冒涜と感じてしまうからだ。
あぁでも、脳内のあらゆる処理を倍速にまでコントロールできる人なら、遠慮なく倍速視聴したらいいと思っている。それができるなら全くもって問題はない。
倍速視聴が嫌いな理由
こんな4秒のシーンがあるとしよう。
愛し合うことが禁じられ、口に出すことすら許されぬ二人を描いた物語のクライマックス。
互いに口に出せぬ恋心を内に秘めた男女が見つめ合うわずか2秒。その間に、彼らは何を感じ合うのか。それは劇中のやり取りから視聴者が感じ取るべきもの。2秒で。
そして、男性側が視線を外し踵を返す。それに追いすがるかのように、女性の目はほんの少し見開き、わずかに動く唇とあげかけた手。言葉には出来ず、目と口を閉じ、静かに反対方向へ歩き出す短くも重い2秒間。
こんなワンカットがあったとして、倍速視聴してしまうと一瞬だ。特に目を見開く演技なんて見落としてしまいそうだ。その感想が、やっぱりくっつかなかったね。何も言わなかったね。とかだったら、私が作り手なら悲しい。
作品というのは、どの部分に作り手の伝えたかったことや表現したいことが含まれているかはわからない。それゆえに、全てのシーンを集中して見てもいいくらいだ。
あらすじやネタバレを先に見て、自分なりにこの場所は等速で見ようと決めることはまだマシだと思う。しかし、それだけでは意外性というものと出会うチャンスが少ない。ただでさえ結論を知っている物語を見るのは、初めて結末を迎える感動をスポイルされているのに、だ。
とまぁ、私はこのように感じているのだが、エンタメの楽しみ方は人それぞれなので、正直なところそれほど気にしてはいない。好きにすればいいとは思う。
私が危惧しているのは別の要素が大きい。
倍速が普通だよね
みんな倍速で見るのが当たり前なんだから、作り手側もそれを意識した作品を作ればいい。環境に適応できなければ淘汰されるだけ。というような論調が強まってしまったら悲しい。作品の多くがビジネス目的で作られるのだから、ニーズに応えるのは間違いではないものの、新しい作品を生み出すという観点では自由度は低くなってしまう気がする。
質より量重視
作り手はとにかく、数を出さなくてはいけない。という風に考えていくと思う。
1本の映画を作るのにどれくらいの時間がかかるのかは知らないが、倍速制作が出来ない以上、消化速度の方が勝るのは当然だ。そして、あらゆる創作物の作り手の数が増えているのだから、シェアの奪い合いも起きている。そうなったら、矢継ぎ早に新作を提供していかなくては忘れられてしまいかねない。
そして、この傾向に向かえば必然的に……
モノ消費へと移行している
今の時代、エンタメや娯楽が溢れすぎている。商用作品もそうだし、noteでも日々作品が生み出されている。そして、それに触れやすい。アレも見たいコレもやりたいで、時間はまったくないのだ。
これは人付き合いにおいて、知っておかないといけない予備知識の幅を増やしてしまうことになっていると私は思っている。簡単にアクセスして目的の情報に触れられるのだから、当然あなたも知っているよね、という考え方が横行しやすい。ネットでは、一部の声が大きく感じやすいのも一因だ。
そして、焦る。色んな情報をおさえておかなくてはいけない。じっくり考えている暇なんてない。とりあえず消化していかないと、という考えに陥ってしまっているのだと思う。
やがて考えるのを止めてしまう
私は、一つ一つを丁寧に読み取っていきたい。それが間違っているかどうかは関係なく、自分がどう感じたのかを大事にしたいということだ。
作品の結末を知りたいのではない。結末を知った自分が何を感じ、何を思ったのかを知りたいのだ。
だから、何も考えずに見るという行為は、それこそ時間の無駄だと考えている。作品を見て何も考えなければ、それが一体何になる。私に言わせればそういった行為は、ネットニュースの見出しだけを見ているようなものだ。どこで何があったかをただの情報として仕入れるだけ。この物語はこういう話。この曲はこういう曲。この記事はこういう記事……
その情報から何を感じるかをこそ大切にしたい。
だからコメントをするのだ
noteの記事を読んでいてもそうだ。どんな記事を読んでいても考えている。
・なるほど。こういうことか(勘違い多々)
・本当にそうだろうか
・もっと他の可能性はないだろうか
・自分ならこうする/こう思う
・別のことを想起させる内容だ
・記事の通りだとしたら、こっちはどうなる
・全くもって意見が合わん!
・9割同意だけど、1割が決定的に違う
・参考にしたらこんな結果になった報告
この辺りは分かりやすい例で、実際は何を考えているかはその時々、読む記事によって全然違う。ただ、何も考えずに読んでいることはない。
考えていることは、基本的に言語化できる。だから私は、読む記事のその全てに脳内でコメントをつけているといってもいい。実際にコメントするかどうかはまた別の話。
どんなコメントであっても、それはその記事を読んで考えた結果が現れている。コメント内容にたとえ誇張や脚色があっても、コメントする行動に嘘はない。伝えたかった思いに偽りはない。
そんなわけで、コメントのターゲットになっている方には申し訳ないですが、引き続きお付き合いよろしくおねがいします。お返しもいつでもお待ちしております。
投稿タイミングを逃して下書きに放置して3ヶ月ほどの記事。コメントに関することで今の心境とちょっとだけ違うことがあるので追記して投稿することにした。
プロフィール欄や最初の投稿なんかに、コメントや交流はお断りといった旨を記載している人には絡まないのは当然として、そうでなくても、関わらない方がいいケースってのもある。コメントしないこと、もっと言うとスキすらつけないことが敬意になる場合もあるってこと。
じゃあどうやってその記事を読んだことを伝えるのって話なんだけど、伝えなくてもいいんだよね。伝えたいと思った時点でもうちゃんと考えていて、その記事から受け取るべきことは受け取ったわけなんだから。
ただ、どうしても表現したかったらそれっぽい記事を書いてみればいい。コメント代わりに。
気づくかどうかはわかんないけどさ。気付いたとしてもそれはこちらには分からないんだけどさ。
未回収でもいいから、どんどん人生の伏線を張っていくのも面白いと思わないかい?