春の終わりを、おもう。池田晶子さんの言葉に想いを馳せて
春の終わり
やわらかな春の陽射しとおうらかな桜は満開を迎えて次の季節への準備をしている。
そよそよと吹く春風なのか、夏の到来を告げる向夏の風なのか。
そんな春の終わりとも呼べる風を全身で目一杯感じながら、あれこれともの思いに耽ってしまうのだ。
おもう、という言葉の豊かさ
「おもう」という言葉を僕等は良く口にする。
「〜だとおもうんだよね」と日常的に言葉にしているが、「おもう」には幾つもの漢字が充てられることを最近知った。
思う。想う。憶う。念う。惟う。懐う。意う。忖う。恋う。顧う。
まだまだあるかもしれませんが、少なくともこれくらいの漢字が充てられるようです。
広辞苑で意味を調べても
こんな意味が「おもう」には内包されていると知った時に、言葉の豊かさに圧巻しました。
おもう、という言葉をひとつとっても、
私が使う「おもう」がどんな意味を内包しているかで、言葉のトーンや話し方などの伝え方だって変わって然るべきだと思ったのです。
目には見えぬ「おもい」を自覚して、それを変えてみるススメ
僕らが使っている言葉は、意味に包まれている。その意味は目には見えぬのです。
同じを桜をみていても、
ある人は「出会いの春」を連想し
ある人は「別れの春」を連想する。
ある人は「儚くて、美しい」と感じる人もいれば、
ある人は「喪失」を感じる人もいるかもしれない。
同じものを見ていても、
まるで違うことを感じる人が沢山いる。
なんだか寂しいようで、それはとても面白いものであると私は考えます。
哲学を平易な言葉で語り、考えるということはどういうことかを伝えた元慶應義塾大学教授の(故)池田晶子は云います。
僕たちは目に見えるところを変えていこうと努力したりします。
やはり目に見えてわかるというのは達成感があったり取り組みやすかったり、評価されやすかったりしますから。
それはそれでとても大切なことですよね。
ですが池田さんは、こう云います。
と。
僕たちは目に見えるものと同時に
目に見えないものが世界を変える力があるっていうことをもう一度大切にしてもいいのかな、なんて思うのです。
おもう、を少し自覚してみる。
僕は池田さんの言葉を一旦受け容れて自分の「おもう」から見える景色を楽しみたいと思うのです。
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