見出し画像

■【より道‐60】随筆_『パンデミック体験記』(長谷部さかな)

この記録の主題をなす奇異な事件は、二〇一九年十二月、中国の武漢に起こり、またたく間に全世界へひろがった。翌年三月十一日には、WHO(世界保健機構)のテドロス事務局長が、新型コロナウイルスへの感染がパンデミック(世界的な大流行)に至っているとの認識を示し、四月七日には日本の安倍晋三首相が東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の七都府県に緊急事態宣言を発出して、四月十六日に対象を全国に拡大した。


疫病はしつこく、容赦なく、無差別にひろがって行く。私が居住する千葉県浦安市は東京湾に水流が注ぎ込む江戸川の橋を一つ渡れば東京都、という地理的な位置にあり、疫病まん延の影響をまぬがれようもないが、九ヶ月後には遠く離れた故郷の岡山県新見市でも感染が確認され、安全地帯ではなくなった。もはや日本全国津々浦々に至るまで逃げ場はない。


私は腹をくくって、新型コロナウイルスと向き合うことにした。といっても、疫病専門家がすすめる通り、不要不急の外出を避けて、対人接触を八割削減し、マスクの着用、手洗いとうがいの励行という単純な生活習慣を守るだけのことであるが、それに加えて、この機会に、私が体験したパンデミックを私なりに記録しておこうと思いついた。

そんな記録を残しても何の意味もないかもしれない。七十七億人と言われる世界人口の全員が記録を残したとしても、文明の進歩には貢献せず、廃棄されるゴミのかたまりになるだけだろうが、少なくともいくぶんかは私の脳の活性化とボケ防止のために役立つだろう。もしかすると、記録することによって何かが見えてくるかもしれない。


1)ペスト


フランス人の作家アルベール・カミュが一九四七年に発表した長編小説『ペスト』が、新型コロナウイルスの流行のおかげで見直され、ベストセラーになっているという。この小説は、一九五五年(昭和三十年)頃、雑誌『高校時代』(旺文社)で「高校生にすすめる世界文学の名作十選」の一冊として推薦されていたが、頭の鈍い高校生に理解できるような代物ではなかった。


そのことを思い出して、再読したのはおよそ十年前のことだ。その感想らしきものを「備北文学」63号に載せているが、冒頭に引用されているダニエル・デフォーの警句と文中で使われている「不条理」という言葉に妙にこだわっているだけで、あまり深く理解しているようには見えない。その頃はすでに古稀に達していたはずだが、小説を読解する力がまだ十分に熟していなかったのだろう。


八十歳を過ぎてから三たび挑戦することになるが、事実は小説の理解を促進するという感じで、かなり理解を深めることができそうな手応えがある。天才カミユが創ったフィクション(虚構)に凡人一生の現実的体験がやっと追いついてきたというべきかもしれない。


ペストは感染症であり、新型コロナウイルスも感染症である。似ているところもあるが、違うところもある。その類似と相違に着目して観察をすすめていけば、現実に進行中の疫病への対応策のヒントがつかめるだけでなく、『ペスト』という難解な小説が理解しやすくなり、さらに、人間が感染症と共存しながら如何にして生き、如何して死んでいくのかという不条理の哲学を考えるヒントも得られるような気がしてきたのである。


2)ロックアウト


「この記録の主題をなす奇異な事件は、一九四*年、オランに起こった」というのが、小説『ペスト』の書き出しである。

オランは「ここは地の果てアルジェリア」と歌謡曲で歌われる港町に実在しているが、一九四*年にペストが流行したという事実はないし、およそ一年後に終息したという歴史的事実もない。

市民が集団で経験したある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現するというのが作者の意図だったようだが、高校生の私にはその深い意味がピンとこなかったし、七十歳の老人になってもわからなかった。八十歳を過ぎた今の私は少しわかるような気がするのは妄想あるいは譫妄せんもうだろうか。


ペストの死者数がうなぎのぼりに上昇し、ふたたび三十台に達した日、オラン市にはロックアウト(都市封鎖、都市隔離)宣言が下された。市門が閉鎖され、外部との交流がすべて遮断されたのだ。母親と子供たち、夫婦、恋人同士など、数日前、ほんの一時的な別れをしあうつもりでいた人々が突如別離の状態に置かれてしまった。


ロックアウトが宣言されたのはオラン市だけである。オラン市の市民だけが外部から隔離されたのだ。一方、今回の新型コロナウイルスの流行に際しても武漢をはじめ、ロンドン、パリ、ニューヨークなどの諸都市がロックアウトされたが、日本では緊急事態宣言が発出されただけで、どの都市も今のところロックアウト宣言はしていない。


パンデミックの町を歩きながら周囲を見まわすと、通りすがりの誰もがマスクをしている。白いマスクだけでなく、黒や緑のマスクもあって異様な非日常の雰囲気だ。私も白いマスクをつけてゆっくりと歩く。


3)登場人物


『ペスト』の記録者は医師リウーだ。彼は医師としての職務によって、多数の市民に会い、彼らの感情を感じとることのできる立場に置かれた。したがって、自分の見聞したところを報告するには適切な位置にあったが、なるべく控え目な態度で行おうとした。彼は、つとめて、自分に見えた以上のものは報告しないようにした。要するに、記述にあたって、自分が誠実で客観的な証言者の語調をとることに留意したのである。


医師リウーには同僚とボランティアの協力者がいた。同僚はオラン医師会のリシャール会長や血清に着目した老カストル医師などである。協力者は、保健隊の中心人物として活動しながら手記を綴るタルー、勤務時間外に小説らしきものを書く小官吏グラン、市外への逃亡を企てる新聞記者ランベール、「皆さん、あなたがたはわざわいの中にいます。皆さん、それは当然の報いであります」と説教するパヌルー神父、病疫によって息子の命を奪われてしまった判事オトンなどだ。


私は医師ではないし、医師に協力する保健隊のボランティアでもない。病疫とひそかに共謀を結ぶコタールのような犯罪者という自覚もない。しいて私の境遇に似ている人物をあげるとすれば、頬が落ちくぼんだ喘息病みの老人だろう。

医師リウーがひとりで喘息病みの老人を往診すると、「ところで、例のお連れさん(註:タルーのこと)は、先生、どうなりましたね、あの人は?」と聞いてきた。

「死んだよ」と、ごろごろいう胸を聴診しながら、リウーはいった。

「へえ!」と、ややとまどった調子で、爺さんはつぶやいた。

「ペストでね」とリウーは付け加えた。

「まったくね」と、ちょっとたってから、爺さんはいかにもそうだという調子でいった。

「一番いい人たちが行っちまうんだ。それが人生ってもんでさ。だが、あの人は、自分が何を望んでるか、ちゃんと知ってる人だったな」

私の記録の登場人物は、この老人だけだろうか。友人はすでに死んでしまったか、体調をくずして寝たきりになり、生きているとしても、消息かない。子供や孫は首都圏のどこかにいるはずだが、コロナ禍では私に感染させるのをおそれてめったに顔を見せにこない。

記述にあたっては、医師リウーにならって、なるべく控え目な態度で行おうと私は思う。自分に見える以上のものはなるべく報告しないように心がける。要するに、感傷に流されないように、自分が誠実で客観的な証言者の語調をとることに留意するのだ。


4)社会的距離


対人接触を八割削減する目標については、私は以前から実行していた。すでに家族、親族の中では今や私が最長老であり、親しい友人の多くは死んでしまった。八十歳を過ぎると、忘年会や同窓会の誘いもない。対人接触を削減したくても削減する余地がないのだ。


それでもしいてあげれば、袖ふりあうも他生の縁という他者たちがまったくいないわけではない。たとえば、隣近所の住人、宅急便や郵便局の配達人、図書館司書、理髪師、医師、看護婦、スーパーやコンビニの店員などである。私は彼らとは適度な社会的距離(ソーシャルディスタンス)をとろうとしている。


隣近所の住人とはふだんはお互いに目礼するか挨拶をかわすだけだが、気が向けば世間話をする。そのような世間話をなるべく控えるようにすれば八割削減になるだろう。


濃厚接触のリスクがありそうなのは医師と理髪師だ。ぜんそくの薬の処方をてくれる内科医は、胸や背中をトントンと叩いて心臓の雑音を聴きわけようとする。整骨医は頸や肩や腰を丁寧にもみほぐす。

歯医者はむし歯や歯槽膿漏の治療で、患者の顔に接近し、細菌やウイルスを数十秒で殺菌しなければならない。理髪師は感染しないようにマスクをして、感染を避けるように気をつけて仕事をするが、私は作業中、マスクをしていない。その状態で、思わず咳き込んでしまったことがある。一瞬のうちに厖大ぼうだいな量の飛沫をまきちらしたはずだ。

「喘息なんですよ」と私は理髪師に弁明した。

「年をとって気道が狭くなったものですから、咳が出てしまいます」。

パンデミック宣言が出ていなければ、こんな弁解はしなくてもすんだことだろう。


5)微生物


オラン市における事件の発端は次のように描写されている。四月十六日の朝、医師ベルナール・リウーは、診察室から出かけようとして、階段口のまんなかで一匹の死んだ鼠にけつまずいた。それから鼠の死骸は市内の至る処でみかけられるようになり、新聞の報道によれば、四月二十八日には約八千匹の鼠が収集された。

「鼠は、ペストか、あるいはそれに非常によく似た何かで死んだのだ」と、老医カストルは結論を下した。

「その鼠が数万の蚤をばらまいていたわけで、つまりこいつが、病毒を伝播するのだーーそれこそ幾何級数的にね、もし早いとこ阻止しなければ」リウーは沈黙していた。

鼠や蚤なら、私の肉眼でも見ることができるが、ペスト菌は見えない。それはペスト菌が、肉眼で見えるほど大きくない微生物だからだ。ウイルスはペスト菌よりももっと小さい。最小のものは直径21ミリミクロン、すなわち五万分の一ミリである。

そんな小さなウイルスが人間の体内に入ってきて感染し、重症化すると肺炎になったり、サイトカインストームを引き起こして、死に至らしめるという。肺炎もサイトカインストームも患ったことがないので、よくわからないが、要するにウイルスという目に見えない存在に気をつけよということだろう。

私は目に見える対象を観察し、耳に聞こえる音を正確に聞きとろうと心がけているが、ウイルスは目に見えないし、耳に聞こえない、まことに厄介な存在であると、あらためて思わざるをえない。


6)孤独死


新型コロナウイルスに関する新聞やテレビの解説者の見通しは二転三転した。たとえば、最初のうちは高齢者だけが感染し、若者は感染しないと言われたが、やがて若者も同じように感染することがわかった。もっとも、死亡率や重症化率は高齢者のほうが高い。

アジア人、特に日本人は比較的感染しにくいとも言われていた。たしかに最初のうちの統計では死者数も感染者数も諸外国に比べれば少なかったが、今夏八月末の数字をみると、累計で死者数が一万五千人超、感染者数が百四十万人超で、決して少ないとはいえない。

また、ウイルスは熱に弱いから、夏になれば、コロナの勢いは衰えるだろうという楽観的な予測もあったが、逆に盛り返して第二波が襲いかかってきた。コロナの患者だけでなく、熱中症によって救急搬送される患者も続出した。高熱が出て、ぐったりするという症状は同じなので、救急隊員は両者の見分けがつかない。病床が不足して、医療崩壊の危機が叫ばれた。

そんなある日、正確にいうと、令和二年九月二十五日午後八時頃、二人の警察官がわが家を訪れた。一人は三十歳位のイケメン男性警官、もう一人は二十代の小柄でふっくらした女性警官である。事前に電話をもらって、一応心の準備はできていたが、やはり夜間に警察官の来訪を受けるとなると心中おだかではない。

用件は、大井町のマンションの一室において発見された遺体の本人確認をしてくれという依頼である。それなら私は直接、大井町警察署に出頭してもよいと申し入れたのだが、警察官のほうから来訪するというのである。


その部屋で暮らしていたのは七十二歳の高齢独居老人で、私の母方の従弟である。入居契約に際して、私が賃貸マンションの連絡先になっていたのだ。二人の警察官は遠慮なく上がり込んで、さりげなく室内の調度品などを観察していた。この時点では自殺か他殺か病死か確定していない。一応、他殺の可能性も視野に入れて、私を容疑者の一人として観察することも目的だったかもしれない。

だが、推定死亡日時の私のアリバイは問われなかった。ということは、私の容疑は心証により、一応晴れたとみてよいだろう。不要不急の外出は自粛しており、大井町まで行くどころか電車にも乗っていない。とはいえ、この夏、私が大井町へ行かなかったという証拠があるかといえば、それもない。


7)遺骨


従弟は、生前、葬式はしなくてもよいと、言っていた。もともと彼の父親、つまり私の伯父は葬式無用論者だったから、親の遺言にしたがっただけのことだ。父親の死から二ヶ月後には母親も後を追った。


したがって、伯父と伯母の葬儀には私も顔を出していない。しかし、葬式はしなくても遺体をそのまま放ったままにするわけにはいかない。火葬場で遺体を荼毘だびに附し、遺骨の処分をする必要がある。従弟もそこまでは知人の力を借りて、なんとかすませたようだったが、私を呼んだときは、二体の遺骨を納めた白木の箱を前にして呆然としていた。


遺骨はお寺に預ければよいだろうと、私は言ったが、従弟は仏教については独自のこだわりがあった。日本に伝来したのはすべて大乗仏教だいじょうぶっきょうだが、釈迦の教えはもともとは小乗仏教しょうじょうぶっきょうである。小乗、つまり原始仏教(上座部仏教じょうざぶぶっきょうともいう)こそが仏教の本質を伝える教えだという。


そんなことをいっても、小乗仏教の寺がどこにあるというのか。スリランカに行けばあるかもしれないが、日本では聞いたこともない。海の上で散骨するか、あるいは山中で鳥葬にすることも考えられるが、かえって面倒なことになりそうだ。私は小乗仏教がどんな教えなのかわからないので、初心者向けの解説書を書いてくれと頼んだことがあるが、従弟は応じなかった。


「人間は仏様がいちばんいい時に死なせて下さる」と彼は言ったことがある。人間ひとりひとりの死期を決めるのは仏様であって、自分ではない。なるほど、そういう教えの通りに彼は死んだのかと私は納得した。

従弟はまた、親類縁者の冠婚葬祭の噂をすることをひどく嫌った。私が『パンデミック体験記』と題する随筆で彼をコロナ疑いか熱中病疑いによる死者としてみなすようなことを書けば不快に思うだろうが、話の都合上、省略する訳にはいかない。長年の交誼こうぎに免じて、なんとか許してもらいたいと思う。

話を叔父叔母の遺骨に戻せば、目の前に遺骨があると、安置する場所を決めなければならない。けっきょく、大乗仏教の寺でもいいから、どこかの寺に持ち込むしかないという結論になった。従弟が選んだのは先祖伝来の寺ではなく、鎌倉の円覚寺である。臨済宗の寺だから禅寺ということになるが、従弟は鈴木大拙すずきだいせつの書いた禅宗の本をよく読んでいた。また、五月頃、道元の『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』英訳本を送ってきた。死が遠くないと予感していたのかもしれない。


8)斎場


翌日、大井町警察署へ出向いて遺体の本人確認をした。死後、約一ヶ月が経過しており、いちじるしい容貌の変容をきたしていたが、「本人に間違いありません」と私は言った。確信は持てなかったが、このような場合には誰かがそう言わなければおさまりがつかない。

すると、警察官はマンションの鍵、現金約六万円入りの財布、預金通帳、キャッシュカード、クレジットカード、住所録、名刺入れ、手帳、衣服類、薬など一式の入っている紙袋を私に手渡し、遺書はない、と言った。遺書もなければ、相続人もいない。相続人でもない者に鍵や預金通帳を渡してしまうのは無責任ではないかと思ったが、警察のするべきことはそこまでで、さっさときりをつけたいという意向のようだった。

こういう場合、どうしたらいいかわからないので、私はあらかじめ二人の人物に電話して、助言と協力を仰いでいた。一人は浩一さんといって、従弟の母方の従弟だ。私は父方の従弟だから、浩一さんとは血のつながりはないし、それまでに逢ったことは一度もない。


三年前まで、従弟はロンドンのケンブリッジ大学で哲学の研究をしていたが、路上で転倒し、救急車で病院に運び込まれたことがある。一命はとりとめたが、一時期、電話もつながらなくなった。ちょうど年末から正月のころだったが、そのころ、京都の叔母さん、つまり、浩一さんの母親が心配して、私に葉書で従弟の動静を聞いてきた。


ロンドンの日本大使館に電話をかけて調べてもらったところ、入院中だということがわかり、数日後には退院して、日本へ帰ってきた。「叔母さんが心配していたよ」と伝えたが、従弟は京都へ行こうとはせず、大井町で賃借したマンションの住所も電話番号も知らせるな、と厳命した。変人の言うことだから、いったん言い出したらどうにもならない。


私が協力を依頼したもう一人は私自身の息子だ。息子はふつうのサラリーマンで、従弟とはまったく面識がないが、手まわしよく、大井町警察署にエンディングプランナーと名乗る人物を連れてきた。このエンディングプランナーが警察署や市役所への対応や手続きをてきぱきとすすめてくれた。


翌日、臨海斎場の待合室で浩一さんと初対面の挨拶をかわした。人品骨柄とも上品な大学教授だ。息子とエンディングプランナーと浩一さんという三人が私の濃厚接触者である。そこへもう一人の濃厚接触者として意外な人物があらわれた。


9)寺


円覚寺**庵の住職である。京都の叔母さんの意を受けて、浩一さんが前もって依頼していたらしいが、まさか住職が斎場までやって来て、読経してくれるとは思いもよらぬことだった。参列者は少ないけれども、これならかたちの上では葬式らしいかっこうがつく。


実は名刺入れには大学関係者らしい人たちの名刺が多数入っていた。片っ端から電話で訃報を伝えることも考えたが、従弟はほとんど交流していなかったらしいので、電話連絡はすべて省略した。一人だけ熱海にいる公認会計士と親しくしていることは聞いていたので、電話してみたが、それほど深いつきあいではないというのが公認会計士の反応だった。

その日は大船のビジネスホテルに泊まり、翌日、浩一さんの車で円覚寺に向かった。鎌倉時代に北条時宗によって建立された臨済宗の寺だ。これまでにも何度かお参りしたことがある。最初は伯父と伯母の骨を持参して永代供養をしてもらったとき、二度目は従弟がロンドンにいた頃、神戸の叔母と亀山の叔母がそれぞれ従妹を連れて、お参りしたとき、案内役として私も同行したことがあった。

さらに、一年前の九月にも従弟と一緒にお参りした。伯父と伯母の十七回忌の供養をしてもらったのだ。あの時は従弟も元気で、北鎌倉の駅から山門に入り、息をはずませながら、急な坂道を上った。「それだけ元気があれば、大丈夫だ」と私は言ったが、彼は杖をついていて、かなり苦しそうだった。


浩一さんによれば、叔母さんは従弟には何も知らせず、姉夫婦の三回忌や七回忌などの忌日に何度か円覚寺で法要を営んでいたという。小乗か大乗かわからないが、陰徳と呼ばれる行為だと思う。


10)人形


一九四*年は、年があらたまると、オラン市のペストは勢いがおとろえて、突然、終息したと小説『ペスト』ではなっているが、二〇二一年の日本の現実世界では、新型コロナウィルスの勢いはおとろえを見せず、第三波、第四波、第五派が襲いかかってきて、感染者数、重症者数、死者数などの数字が、いずれも増加と減少のサイクルを繰り返した。

二月半ば頃、一通の訃報が届いた。百二歳という高齢で神戸在住の叔母が亡くなったのだ。すでに葬儀も四十九日の法事もすませてからの事後報告である。高齢者介護施設には入居せず、息子夫婦と同居していたし、男の子と女の子の孫にも恵まれていた。

近所には娘が嫁いだ家があり、娘は一緒に散歩をしたり、話相手になる間柄だった。心臓の疾患があったが、足腰はしっかりしていて、日常の生活には不自由はなかったという。

遅まきながら、お悔やみの電話を入れると、形見分けで人形を引き取ってくれないかという。その人形は、叔母の姉である私の母が京都の平安女学院保育科時代の作品というから、その人形を譲り受ける資格が私にあるということなのだろう。

叔母の家の近くに住む従妹からのメモ書によれば、「伯母様は文才豊かで、一方不器用なところがあり、祖母妹達総出で手伝った事も」とある。

「文才豊か」が遺伝しているかどうかはわからないが、「不器用なところ」は私に遺伝していることは間違いない、と納得した。人形は私の娘や孫娘にも見せたが、引き取り手はいない。私が死んだとき、柩の中に入れ、遺体とともに処分するよう言い残すしかない。


11)プライバシー


人形が入っている小包には葉書が添えてあった。日付はないが、今からおよそ八十年前、昭和十四年の初冬、神戸の叔母宛に満州の大同から送られてきた葉書だ。差出人は叔母の姉である。

喜久子奥様 

先日は御旅行先からお葉書を、又、神戸からお便りとお写真とを、共に有難う。うれしく、羨ましく拝見いたしました。とうとう奥様になりましたね。喜久ちゃんの奥様振りが早く見たいものです。とっても幸福さうですね。羨ましいです。

私の様におばあちゃんになったらもう駄目。何んと云っても新婚時代が一ばん楽しいもの。もう少し近ければ、新家庭を訪問するんだけれども、蒙疆ではね・・・。挨拶廻りや家の整理などで忙しかったでせう。もう落ち着きましたか、間もなく正月ですね。意義深きお正月を楽しく迎えられる様に祈ります。

坊やは益々元気ーー大きくなりましたよ、葉書でごめんなさいね。坊やが邪魔してなかなか手紙など書けないの。またその中、ひまを見て書きませう。喜久ちゃんもね。御主人様によろしく。

八十年前のものとはいえ、私信を公開することはプライバシーの侵害になるのではないかといささか気がひけるが、葉書に書かれている文字はかすれていて読みにくい。私が死んだあとは散逸してしまうだろうから、一見して平和に見える時代のおばあちゃんの記録として孫やひ孫がもしかして読むことがあるかもしれない。そう思い直して、引用させてもらうことにした。


差出人である姉は、「私の様におばあちゃんになったらもう駄目」と書いているが、当時の年齢は二十六歳。一年後には死ぬ運命にある人とは、文面からは思えない。死因は風土病と聞いている。具体的にどんな病気かはわからないが、コロナの類かもしれない。


大同は中国の山西省にある都市だが、その年の三月に私が生まれたのは黒竜江省の哈爾浜ハルビンだったし、翌昭和十五年の秋には河北省かほくしょう張家口ちょうかこうに移動した。つまり、二年のうちに哈爾浜、大同、張家口と国境近くの最前線の市を転々としている。


また、蒙疆もうきょうというのは、山西省さんせいしょうの北部と祭哈廟ちゃはるびょう綏遠すいえんの二省および外蒙がいもうを除く蒙古もうこの大部分で、首都は張家口だった。昭和十二年七月七日、盧溝橋ろこうきょうの一発から日中戦争が始まり、戦線が拡大すると、関東軍は熱河ねっか作戦を発動して、東条英機参謀長を兵団長として内蒙古に進撃し、九月十三日に大同、二十七日に張家口を手中にしたという。


12)エンディング


二○二一年八月三十一日。今日は『パンデミック体験記』の原稿締切日である。私が自分の判断でそのようにあらかじめ決めていたのだ。私の予測によれば、おそくとも、この日までには新型コロナウイルスの世界的流行は終息のメドがついているはずだった。


ところが、ウイルスは変異に変異を繰り返して毒性を強めており、感染者拡大傾向に歯止めがかかっていない。今夏、日本では首都圏を中心に四度目の緊急事態宣言が発出された。世界の感染者数は今や二億人を超え、死者数は四百五十万人に達した。事実は小説より奇なり。もしかすると、小説『ペスト』の結末とは異なり、エンディングは人類の絶滅する日まで到来しないかもしれない。


それでも、パンデミックの予測で、私が甘い期待を抱いた根拠はある。それはワクチンだ。中国、ロシア、米国、英国などで何種類ものワクチンや治療薬が開発された。これらの先進諸国は積極的にワクチン外交を競い合っている。


日本は立ち後れたため、ワクチン開発が間に合わず、輸入ワクチンの確保ももたついたが、八月末には接種を希望する国民の半数近くがワクチン接種をすませることができ、ある程度の集団免疫を獲得できるだろうという政府の見通しが報道されていた。それで一安心というところで、エンディングにすれば、めでたし、めでたしという心づもりだったのだが、その見通しは甘かった。


ワクチンは接種したからといって百パーセントの安全や効果が保証されるわけではないし、確実に新型コロナウイルス感染の予防効果があるともいいきれない。ワクチン外交は今や泥試合と化し、戦争の新しい火種にもなっている。


また、新型コロナウイルスの発生源についての論争の泥試合ももう一つ戦争の火種となりかねない。発生源は武漢ウイルス研究所だと米国が主張するのに対して、中国はこれを否定し、武漢にウイルスを持ち込んだのは米軍かもしれないとかみついた。米国の研究者たちは、中国が広めたことを証明しようとしているが、中国はそんな証明をみとめようとしない。


それもこれも私の生活にかかわりのあることのようだが、思い切って、ものの見方を変えてみよう。すべては遠い世界の出来事のような気がする。私はほんとうにパンデミックを体験したのだろうかという疑問も浮かんでくる。


もしかするとすでに感染して無症状で自宅療養中なのかもしれないが、実をいうと、この二年間、コロナどころか、カゼをひいたという自覚もない。では、パンデミックをまったく体験しなかったかというと、そうでもない。ワクチンも二度にわたって接種し、翌日は注射した跡の痛みを感じている。あの痛覚は、私がパンデミックを体験した証拠だ。


とはいえ、その痛覚はすでに消えた。たしかにパンデミックを体験したという確信は、やはり持てない。もし私がほんとうにパンデミックを体験としたとすれば、そこからどのような意味を見出し、有益な教訓を得たのだろうか。もういちど『ペスト』を取り出し、冒頭の警句に目を向けた。

ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらい理にかなったことである。

ダニエル・デフォー『ペスト』


<<<次回のメール【181日目】「尼子の落人」後日譚の構想

前回のメール【180日目】男たちの隠れ家>>>


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?