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哲学による生物種区分は、スピシーシズムによるものかも?
確か
アリストテレスだったけか・・・。
この世界の生物は、植物、動物、人間という種類に大別できるといったのは。
この考えはつまり、それぞれの大きな生物種の枠組みごとに、特有な個性、特性(アリストテレスの「プーシューケー」みたいなもの)があると仮定した上で生物を区別しているということになる。
哲学の本を読んだ後に、生命倫理学?の本を読んでいる時に、この区別にある考えが隠れているのではと考えた。
それは「スピシーシズム」という考えだ。
日本語訳すると、「種差別」。
人種差別、性差別と同じように、異なる区分にある生物を、大概卑下するようなものだ。
この考えの中心は、「人間が第一」というもの。
理性という特性を持つ人間、こういった区別は確かに哲学において、そのそもそもの前提として意味のあることであると確かに惟う。
哲学は、「我々とは何か」というような人間そのものを問う学問と言っても差し支えないようなものであるから、他の生物種との、その特性による差別化が存在するのは、哲学においては無理のないものだろう。
もし動物にも理性が存在して、彼らなりの哲学が在るというのならば、それは無視できない事態だ。
しかし、現実には無視できるからこそ、このような区分が容認されているのだろう。
ここで結論というわけではないが、
少なくともこの「植物、動物、人間」という区分が、利益の平等な配分という道徳的原則に基づいているわけではないな・・・
なんかそれっぽい文章書けた・・・!
よーし、これからも哲学の勉強頑張るぞ!(お前観光学部だろ・・・)
と
今日も大学生は息まいている。
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