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河合隼雄と音楽の“微妙”な関係|バッハから東儀秀樹まで

それを“因果”というのでしょう。たこせん枝瀬さんが立ち上げた『共同運営マガジン「河合隼雄『で』語り合おう』に参加しているゆーしんけんです。

早速、近所の図書館に行って目にとまった『平成おとぎ話』を借りてみました。

河合隼雄さんが京都新聞に1995年(平成7年)から1999年(平成11年)まで連載したコラムをまとめたものです。50以上のお話しを書かれていますが、それぞれ3ページほどの短編なのでとっつきやすい。それでいて内容は広くて深く河合さんの魅力が溢れています。

河合さんご自身がフルートを吹かれるので音楽に関する話題も少なくありません。その一つがバッハの『マタイ受難曲』にまつわるものです。


私はつい最近、この曲が登場する小説を読んだばかりだったので不思議な気持ちになりました。

三鶴さんと仲川光さんの共作小説『白い春~君に贈る歌~』の中で『マタイ受難曲』について語る一幕があります。

曲全体を通して感じられるのは、あのイエス・キリストでさえ、死の磔に至るまでに、相当の葛藤があったのだろうな、ということだ。
そして、3時間に渡る受難曲の世界に入り込んでいると、日本人の私であっても、キリストの受難を涙せずにいられない。
バッハの深い信仰心を感じる。
音楽を感じ取るのにも、信仰を感じ取るのにも、実は国境は関係ない。

『白い春~君に贈る歌~』より



河合隼雄と音楽

河合隼雄(以下敬称略)は、武満徹(作曲家)や柳田邦男(ノンフィクション作家)が大好きだった『マタイ受難曲』についてエピソードを紹介しています。

そのうえで、バッハや武満徹の音楽を「ふしぎな偶然の一致を呼び起こす力を持っているのではないか」「ふしぎな共鳴現象を生み出していくだろう」と解説しているのが印象的でした。

さらに詩人の谷川俊太郎と『MI・YO・TA』(作詞:谷川俊太郎 作曲:武満徹)について話したエピソードでは「感情のゆらぎを通して、どこかでたましいに響いてくる」「一本の糸がまっすぐにたましいに達してくる」と表現しているのです。


音楽が持つ“力”の正体を探ろうとして「ふしぎな」や「たましい」といった言葉を使ったように思えます。


ドイツのバリトン歌手、フィッシャー=ディースカウのエピソードではより具体的に感じ取っていました。

ディースカウがシューベルトの楽曲を生徒に指導するときに「(私の)まねをしないで」というのを聞いて「たましい」を感じたという河合隼雄。

ディースカウの「顔」や「しぐさ」すべてがたましいを伝える。細かいひとつひとつを通じてたましいが伝わっていくというのです。


東儀秀樹と「あいまい」

河合隼雄が雅楽師の東儀秀樹と対談したときのこと。

宮内庁の楽師でもある東儀秀樹は雅楽器の篳篥(ひちりき)について「音程や長さがあいまい」と話したので意外に感じたそう。

よくよく聞けば説明する際にわかりやすいから「あいまい」という言葉を使っているものの、心の中では「そのあいまいさが完璧となっている」と明かされて合点がいったというのです。

河合は東儀の(一般への)気遣いを惜しむかのように「あいまいどころか、むしろ細部に至るまで精密にきまっているというべき」だと振り返り、記号や数によって一般に伝達できないことは「あいまい」と考える世間の風潮に対して「科学思想万能の悪い影響」と指摘していました。


あいまいと“微妙”

微妙は一般的に「びみょう」と読みますが、仏教経典では「みみょう」と読むそうです。

少し長文になりますが静岡県成道寺・伊久美清智師のお話しから一部引用させていただきます。

お釈迦さまの教えは「みみょう」だと書かれています。お釈迦さまの言葉の表面の意味だけを、ただ、ボケーッと追っているだけでは、とてもじゃないが真意は理解できない。よほど注意深く心を集中し、思いをこらさないと、つい見すごしてしまうことになるということです。子どもの微妙な心の動きを敏感に察知できるのも親なればこそ。『微妙』という言葉のもつ意味合いを微妙に感じ取っていただきたいと思います。

曹洞禅宗・成城山|耕雲寺『仏教の話「第104話 微妙(びみょう・みみょう)」』   

河合隼雄は東儀秀樹と対談した頃、仏教に関心を持つようになり、別の場で中沢新一(宗教学者)と対談して「あいまい」についても論じ合ったとか。

音楽の「ふしぎな」力を深掘りながら「たましい」や「あいまい」へと繋がるなか、「微妙」の真理も脳裏にあったのではないでしょうか。


初心者の私が気づいたことを“音楽”という切り口で書かせていただきました。河合隼雄『で』語り合うきっかけになれば嬉しくて「たましい」が震えます。



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