音楽ってなに?
あの音楽を追って
そこに音楽がなっていたら、「あ、音楽がなってるな」とだれでもがわかりますよね。でも、一旦、じゃあ音楽ってなに?と問い始めて、その姿をはっきりと見ようと追いかけ始めると、追えば追うほどにその実体がわからなくなるのです。
私の半生ってそれでした。
自分の過失で火事を起こしたときにひろったのは、2つの真反対のもの。
ひとつは自分の行為がとんでもないことをひきおこすのではないか、という不安神経症。
もう一つは、自分が音楽に救われたということ。
以前この記事に書いたのがそれです。
音楽大学で習ったことは大事なことがたくさんあったけど
でもきっと「音楽」の一面でしかない。
一番肝心なことは習えなかった。
そんな気がしてならなかった、もう満足できなかったのです。
私は音楽がわかっていないのに、音楽を教えていることに罪悪感もありました。
日々、どっか申し訳ないような気持ちがしながら教えていたのでした。
私が伝えたいのはあの、私を救い続けた音楽なのに、
なぜ、目の前のこの生徒を今弾けないピアノで泣かせてるんだろう・・みたいな。
伝えたいものが伝わらない、伝わるすべがない。
そもそも、あの「音楽」はなんなんだろうか。
いや、翻って、そもそも世に生まれてくる音楽はなんなんだろうか?
そうして、藁をもすがる思いで、そして好奇心でわくわくしながら、
この世界の謎に、行ったら戻れない感じすらするその問いの海に
向かっていってるときが私は一番自分らしいと思います。
いつもいつも、そのことを考えていたのではないけれど、
いつしかそこへいつも戻っていたことは確かでした。
自分のピアノは当然ながら、生活、子育て、植物や動物
ユングやシュタイナー、
芸術療法やオイリュトミー。
社会とも切り離せないし、心とも切り離せない。
民族とか、ジャンル。
私、という存在の意味
その中にあって、世界の大多数の音楽の源である、西洋音楽。
楽譜ってなに?
音楽はどんな風に生まれて育ったのか。
赤ちゃんはどんな風に音楽に触れ、その身体の中で育むのか。
人の内と外。心と身体と感覚。実感。
そうするうち、一つの答え、ではないけれども、方向性が見つかりました。
それは少なくとも、音楽が荒廃するとき、人間も荒廃してるだろうということ。
逆に、人が豊かであれば音楽は自然豊かだろいうということ。
今から思えば、それが一つの糸口だったような気がします。
音楽はなにか、の答え。
そして、最近おもむろにわかったような気がしたのです。
今、「音楽を描く」を誰にでも伝わる言葉で、読む人の方から掘り下げるようにして、理論というところを崩しながらテキストを書き直しているところなのですが、時々手が止まってしまいます。そしてそこでも、いろいろ葛藤が湧いてきます。あの、音楽って何?問題が。
なぜなら、ちゃんと伝えられないのは、私がまだ掴みきれていない、なんか、肝心なことがわかってないから。
数日前のこと。
それは歯医者さんの待合室で、そう、おもむろに。
いつも、だいたいそういうもんかもしれません。
意識に登っているものと、無意識に蓄積されたもの、
言葉や、システムや、感情や、諦観、
いまだ開いていないものと、すでに過去に固まっていたもの。
それらが、パズルが整っていくように、一つの意味を目指して動き始めた感じ。
それが普遍的に正しいかどうかは問題ではないのです。
私が音楽をする意味。
音楽は一人ひとりのなかにその答えがある。
巡り巡って、そこ、あまりにありきたりな。でも、私は一周回ってここにきました。
きっと、私のさまよったときに拾い集めたものは、その答えが誰かの中でひらめくときに役に立つんだろうと思います。そうだといいな。
私がやってるのは音楽教育ではないのかも。
息子がこないあだ、私の話を聞いてくれて、ポツリと言いました。
「ハハがやってるのは、ピアノとか演奏じゃなくて、音楽教育でもなくて、音楽学やね。」
まあ、音楽学がなにか、よくわからないんだけれども、息子と自分との間で了解した空気感のなかにあったものは、あ、それ、というかんじでした。
少なくとも、私は、人が達者に音楽を奏でられるようになるように導く
いわゆる”音楽レッスン””音楽教育”、とは少しズレてるのかもしれないなあと。
そうだと思ったのです。
私はこれからも、音楽の源を探りに行きたい。
やっていることと、求めていることの誤差がだいぶなくなってきた感じがします。
音楽は一人ひとりの中にその答えがある。
だから、これからは、もう文献やCDの中には探さないと思います。
多分、もう十分やってきた気がするのです。これ以上は知識欲以上のものではないな。
それほどそこに多くの情報はもういらない、これまでほってきたものを今度はちゃんと照準をあわせてそこから紐解き直していけばいいってことか、
なんか、とってもシンプルにつながってきて嬉しいと思いました。
ふと、振り返ってこの記事を読み直して気がついたのですが、
あの、苦しかった当時(今も楽になったとは言えないけど)
不安神経症は自分の行為が信じられない、自分に対する不信感だったのに並んで、
音楽に救われた、と思ったのは、自分への信頼だったのかも、と。
まあ、わからないけど、そんな気がしてきました。
自分の性懲りのなさは、そんなところから生えてきています。
*音楽にまつわる一連の考察を マガジンにまとめています。