”美しい”の差異
人によって美醜の捉え方はそれぞれ。
でも、それはどうしてなんでしょうか。
好みとか、その人の歴史とか、もちろん、大きいと思いますが、
それをさらに内側でささえているのは
「感覚」が外の世界を拾うその範囲が
おおもとからそれぞれ少しづつ違っている、ということがあるとおもうのです。
同じものを見ているようで、じつは同じものを見ているわけじゃない。
それは同心円的に広いか狭いか、というのではなくて、
どこに焦点があたっているかというところから、別々で。
100人いたら100人みんな、なにがしかちがっていて。
もちろん、世界は一つなわけだけれども
みんな自分の節穴から外を眺めているのかとおもうのです。
さらに、時間をとらえる感覚の違い。
奥行きの違い。多様性。
だとしたら私たちは
自分の節穴の世界しか知らないで、
みんな違う世界に住んでいて、ずっと平行線ですれ違って
生きていくのでしょうか。
いや、そうじゃなくて。
すくなくとも自分の世界を広げることはできる。
なにによって。
それは、誰かの感覚をとおして。
新しい世界の息づきは、他者のリアルな感覚が教えてくれます。
人には自分が意思すれば
他者の感覚と、仮に、ではあるけれども同化する力ももっていて
そこから自分の世界がほころんで、ひとつ緩んで、ひろげていくことができる。
誰かの「美しい」と感じる心を、その幸福感を、あるいは痛みを
自分の美しいと感じる心が察知して、それを自分もみたいと思うとき。
あがくように、見えないものに目を凝らし始める。
でも、
見えている世界が変わる、というのはある意味その人にとっては危機です。
境界線をおかすことになるのだから。
昔、こどものころ、ここから先へ行ってはダメ、と教えられていた峠を越えてしまった、あの冒険と、罪悪感と、その日のうちに帰ったのに、「もう知らかったころにもどれない」という思い。あれを思い出します。
それでも、ひとつ峠をこえたい、人にはそういうところもある。
見えないものは存在していないもの
と、きめてしまうか
見えないものを空を掴みながらでもみようと試みるか、
決めるのはその人本人。
どちらをえらぶこともできる。
何かが見たいと思った時、あるいはどこかに限界を感じた時、
そこに他者がいて、
その目が、耳が、感触が、なにかヒントをあたえてくれる。
世界ってそうやって、節穴があちこちでポコポコ開いているような感じから
波紋が広がるようにしてリンクし合い
溶け合ったところからリアルな体験に満ちた世界へと
広がるようにできてるんじゃないか。
溶かしていくのは、個々人の感覚とその広がり。
・・・とおもうのは
この時代だからこそ、芸術の意義を考えるからです。